Blog Archives

ウラジオ発:極東ロシアで亡くなった祖父を血統を探す ドミトリー・ニコラエヴィチ・エルフィモフさん

第二次大戦終戦まで極東ロシアには中国、朝鮮、日本を主としたアジア人がロシア人と混じって生活していました。そのアジア人の多くは出稼ぎが目的でしたが、中には軍事諜報活動に関わった人たちもいたと言われています。日本の文豪,二葉亭四迷も極東ロシアを訪れ諜報活動に関わったという小説もあったりします。第二次態勢中の極東ロシアにおける日本軍側の諜報活動員として嫌疑をかけられ当時のソ連で処刑された祖父を持つのが、ドミトリー・ニコラエヴィチ・エルフィモフさん(Дмиторий Николаевич Елфимов)。今回は、小さな手掛かりを手に、アジアのどこかにいるであろう祖父の親族を探すドミトリーさんにお話しを伺いました。
 
 

 
 
–ドミトリーさんはウラジオストクのお生まれでしょうか?
いいえ、生まれはシベリアのクラスノヤルスク州で1966年なのですが、徴兵で沿海州に来て、そのままウラジオストクに残り、今に至ります。徴兵後は医学部へすすみ、現在は日系医療機関の理学療法士として勤務しています。
 
 
–ドミートリーさんのお顔からはアジア人っぽさがうかがえますが、小さい頃から御自身にアジアの血を感じられていたのでしょうか?
シベリアのクラスノヤルスクで、しかもソ連時代であり、周囲の文化はソ連一色、中国の情報がかろうじてあるくらいで、自分では自分の血や出生について考えることはほとんどありませんでした。アジア人といえば中国人くらいしか当時の子供達の頭にはなく、幼少時代はドミトリーは中国人と言われたことはありましたね。もう1つのアジアとの関わりといえば、空手でしょうか。ソ連時代、法律で空手は禁止とされていたのですが、密かに習っていました。密かに教えてくれる空手の先生がいて、私を含めて4人ほどの子供たちが習っていました。特にアジアの血を意識したことはなかったですが、今振り返ってみると多少既に関わりと憧れがあったのかもしれませんね。
 
 

 
 
–いつ父型の御祖父が日本人諜報員だと知ったのですか?
父型の祖父が日本人であったという確証はなく、おそらく日本人であったと書面で知ったのは2年ほど前です。私に日本の血が入っているような、予言というか、ほのめかしというかそういうのが初めてあったのは5年前です。
 
 
–5年前の予言と2年前の書面について詳しくお聞かせいただけますか?
ロシアには日本の占い師のような、過去と未来を見れるという人がいて、5年前にウスリースクで出会いました。その人はロシア正教の女性で、私が彼女に部屋に入った途端「日本人、侍が来た」と言いました。あまり多くを語りはしなかったのですが、その時に急に私も自分の体に日本の血が流れていることを意識するようになりました。そして2年前なのですが、姉から衝撃的な書類を受け取りました。それはソ連国家保安委員会(Комитет государственной безопасности СССР)のアーカイブ文書で、祖父の死因についてのものでした。祖父は日本の為の諜報活動に従事したという嫌疑で当時のソ連によって1937年にハバロフスクの西側ビロビジャンという街で拘束、1938年ハバロフスクで銃殺されたと書かれていました。祖父は出稼ぎをしていた「コファ(КО-ФА)」という中国人であると自分を名乗ったようで、書類上は「コファ」という名前で統一されていました。ただ日本の為の諜報活動と嫌疑はなっていますし、祖父が残したサイン「十上」というのが私の知り合いや、歴史専門家の意見からしても、どうも日本のものだとあり、そこから私は、祖父が日本人であるという視点で祖父についての更なる情報、そして願わくば親族が見つからないかと始めたわけです。
 
 
                         中国国籍で日本のために働く反ソ連諜報員という嫌疑で逮捕された
 
 
                              拘留され「コーホー」と自称した御祖父
 
 
–ドミトリーさんのお父様からは祖父のお話を伺う機会はなかったのでしょうか?
私の家庭的な事情が複雑で、少し父と私の関係についてお話しますね。父は銃殺された祖父と祖母の間で生まれた1人子だったのですが、祖母もどうも殺されてしまったようで孤児として孤児院で育ちました。私の父と、母は私が幼少の頃に離婚し、私は母とクラスノダルスクにおり養父と一緒に育ち、父は父でウラジオストクで新しい家庭を築いて生活していました。1980年代半ば、私は徴兵でウラジオストクに来ることになり、その際に母から父のウラジオストク住所をもらいました。その住所を頼りに父と会い、少し話ましたが、父は自分の出自や祖父については何もしりませんでしたし、何も語りませんでした。父も新しい家庭がある手前、あまり私と会うこともできず、ほとんど連絡を取ることはなくなりました。祖父の血を引く父と私の関係は、こんな感じなので祖父や親族についての情報は父からは何も得ていません。
 
 
                          ドミトリーさんのお父さんは「コーホー」の子として孤児院で育った
 
 
–大きな手掛かりとなる「十上」という御祖父のサインについて、どういう考察が行われているのでしょうか?
「十上」については現在2つの考察があります。1つは職場の通訳者が調べてくれたもので、15世紀に日本、朝鮮、中国で使われた文官の姓として「十上」があったとのことです。通訳者もプロではありませんのであくまでネットなどで調べてくれた範囲での考察です。もう1つはウラジオストクの歴史家で漢字にも精通された方の説で、1938年当時「上」は中国で使用されておらず、日本の漢字であり、それゆえに祖父は日本人であったのではないかという考察です。まだまだ情報としては不十分ですが、今のところはこんな感じです。
 
 
                             御祖父が死の間際に残した「十上」のサイン                              
 
 
–ドミトリーさんご自身は御祖父の残されたサインについてどのようにお考えですか?
祖父は自分を「コファ(КО-ФА)」という中国人であると調書では供述したのですが、その祖父の調書上の供述と、「十上」というサインは全く一致していません。おそらく祖父は、いつの日かこの自分のサインが白日の下にさらされ、日本側にいる自分の親族、そして唯一の子であった私の父、そしてそれに続く私達子孫に自分の存在を伝えるために残していったのでしょう。最後まで、自分に課せられた任務を遂行し、自分の身分は一切明かさず、サインも祖父そのものと何も関係ないという推論もありえますが、私は死を前にした人間の心境としては、自分の血と足跡を残したかったのだろうと思っています。
 
 

 
 
–御祖父の件について、どのようなことを願われ、今後どのように進められていく予定でしょうか?
可能性や希望が少ないのは重々承知している一方、少しでも可能性があれば、少しずつでもいいので祖父の存在を明らかにしていきたいですし、日本にいるであろう祖父の親族を見つけらればと思っています。そして祖父型の本当の姓を明らかにしたいです。私の姓エルフィモフ(Елфимов)というのは、実は母型の姓なのですが、これは父型姓を受け継いでいくロシアの伝統からは外れるものです。母型姓を血統として受け継ぐイスラエルのような国もありますが、ロシアでは父型姓こそが血統であり、先祖と自分をつなぐものといえます。この先祖とのつながりである父型の姓をなんとか知りたいというのが個人的な憧れです。
 
 
戦争と国家という抗えない状況の中で人生を終えていった国籍も確かでないドミトリーさんの御祖父。そしてその血を受け継ぎ、アジアにおける先祖とのつながりを明らかにするという願いをかける現代に生きるドミトリーさん。そんなドミトリーさんは日本にロシア正教を広めた聖人ニコライに願をかけ、ニコライがロシアと日本を結んだように、ロシアのドミトリーさんと日本が血の上で繋がる日を待ち望んでいます。今はまだ小さな手掛かりしかありませんが、日本と思われる御祖父の出自や親族が明らかになることを願ってやみません。

ウラジオ発:バー&レストラン「ブリスクス」(英語名:BRICKS)

人気ロックバー「OZZY」のオーナーが噴水通り沿いにOPEN。テイストはロックバーとは全く異なり、カジュアルに立ち寄れるバー&レストランとなっている。自家醸造のビールと地元素材を使用した料理を提供する。

日本語名:ブリスクス
英語名:BRICKS
平均予算:1000~2000ルーブル
メニュー表記:ロシア語

“>

ウラジオ発:プロカメラマン  イヴァン・ジャキンさん

大きな写真コンクールも多く、プロカメラマンも多いウラジオストクではカメラマンの競争も熾烈である。今回はそんな熾烈なカメラマン競争の中で、プロカメラマンとしてのキャリアを着実に歩むイヴァン・ジャキンさん(ИВАН ДЯКИН)にカメラマン(写真家)としての仕事や写真の評価、写真や現代アート鑑賞の方法などについて伺いしました。
 
 

 
 
–お生まれはどちらですか?
沿海州のナホトカです。大学でウラジオストクに来ることになりました。私は双子ですが、彼は両親の住むナホトカで今も生活しています。両親とは頻繁に連絡をとり、双子の兄とも毎晩スマートフォンでやりとりします。やはり双子なのでお互い寂しいというところがあるんでしょうね。
 
 
–イヴァンさんがカメラの世界に入っていったのは何歳頃ですか?
18歳です。18歳~23歳の間、学生のバイトとして少年キャンプの指導員のようなことをしていました。その時に、ウラジオストクで有名な写真家であるエヴゲ二ヤ・タルノヴァさん(ЕВГЕНИЯ ТАРУНОВА)、ナタリヤ タシキノヴァさん(НАТАЛИЯ ТАШКИНОВА)と知り合うことができました。彼女らは、カメラマンとしての卓越した仕事、素晴らしい写真を18歳の私に見せてくれました。ある日彼女らは「お化けみたい?」と言って、私を森に連れて行き、カメラでお化けを撮影し、見せてくれたりもしました。お化けではなく、カメラの技術で見せてくれたわけですが、こういった経験が私をカメラの世界に向かせてくれました。
 
 
                ファッションや結婚式写真で人気を博すエヴゲ二ヤ・タルノヴァさん(ЕВГЕНИЯ ТАРУНОВА)さん
 
 
–初めてカメラを購入されたのはいつですか?
24歳の頃、NIKON90というデジタル一眼レフを購入しました。
 
 
                                  今も愛用はニコン製
 
 
–学校卒業後すぐにカメラマンとして仕事を始めたのですか?
いいえ、カメラマンとしての仕事はまだまだで、普通の仕事につきました。その間、常にカメラを持ち、色々と趣味のような形で写真撮影していました。その自分の積もり積もった写真がある一定のレベルにあると認めてもらい6年ほど前に「沿海州青少年センター」にカメラ、ビデオ撮影係として採用してもらうようになったのです。それがカメラマンとしてのキャリアの出発点になります。
 
 

 
 
–沿海州青少年センターではどういうものを撮影されたのですか?
子供達の活動、中国などとの交流事業、ダンスなどあらゆるイベントをビデオ、カメラで撮影しました。
 
 
–沿海州青少年センターの後のキャリアを教えて頂けますか?
3年ほど勤務した後、沿海州知事付きの撮影係として1年半勤務しました。アンドレイ・タラセンコ知事代行や今のオレグ・コジェミャコ知事の撮影をしました。1年半勤務したのち、フリーランスとして活動しており、女性の肖像を注文で撮影したり、あとはニュース用の写真を撮影したりしています。
 
 
                         知事につきっきりのビデオ撮影は夜中の出動も多かった
 
 
–沿海州知事付きの撮影係の仕事はいかがでしたか?
朝から晩まで知事を撮影するために待機するという待ち時間の多い仕事でした。12時間待って、1-2分撮影するということもざらでした。また知事の行くところ、動く時間に一緒に帯同しなくてはいけないので、知事が中国へ行けば中国に行き、知事が夜中に仕事あれば、夜中に呼び出されるというような感じです。行ったことのないところに行けたり、北朝鮮の金正恩総書記がウラジオストクに来た時は国境のハサン駅に迎えに行ったり、極東フォーラムでプーチン大統領が来たときは、すぐそばで撮影したりと、なかなかできない経験もしました。青少年センターの仕事もそうですが、この知事撮影の仕事もカメラマンの収入としてはとても安定していました。しかし、毎日、待機、決まりきった角度で、決まりきったものを撮影するという創造性に欠けたものでした。やはり私には、自由や創造性を発揮するような場面が必要なので、今のようなフリーランスとして活動する道を選びました。
 
 
                            北朝鮮国境のハサン駅で知事が金正恩総書記を迎えた
 
 
–今のカメラマンとしての活動について教えて頂けますか?
依頼があれば、基本的には何でもおこなっていますが、私が得意で、よく行っているのが若い女性からの撮影依頼です。結婚式の撮影というのが本当は収入的にも仕事の多さからしてもいいのですが、結婚式撮影というのも結構決まりきった型があり、それに従って行えばいいというような私にとってあまり面白いものではないので、友人等の依頼以外は積極的に行っていません。
 
 
–イヴァンさんはいつ頃から女性の撮影を始められたのですか?
カメラを購入してから、頻繁に定期的に女性の撮影を行ってきて今に至ります。
 
 
–若い女性はどのようにイヴァンさんに撮影依頼をするのですか?
インスタグラムなどのSNSを中心として、私の撮影した写真を公開しています。それを見た女性が連絡をくれ、日時と場所を決め、撮影します。
 
 
–女性を美しく撮影するコツは何でしょうか?
どんな女性でも美しさを引き出し、キレイに撮影することができます。ただ単にいわゆる見た目というよりは、女性のポーズや髪型、視線、その女性の考えや性格といった内面、そして写真自体の色合いを統合して一番の美を追求します。私はよほどのことがない限り、フォトショップで加工したりはせず、その被写体としての女性とカメラのみでそれを実現し、被写体である女性に満足してもらうのが私の仕事です。
 
 

 
 
                        ナチュラルなものから幻想的なものまで女性の希望に応じ撮影し美を引き出す
 
 
–女性が満足するけど、イヴァンさん的には不満のときもあるのでしょうか?
もちろんあります。なぜかというと注文仕事である女性の撮影では、依頼主である女性が満足し喜んでもらうのが最も重要だからです。時によっては依頼主が満足し、私も満足するということはありますが、そういう時はそれほど多くはありません。お金で依頼受けて行う仕事は絶対的に依頼主視点で撮影しますし、逆にそれ以外の撮影やコンクールにおいては自分の創造性を第一に撮影します。
 
 
–なぜ女性ばかりの撮影で男性の撮影はないのでしょうか?
男性の撮影は皆無ではありませんが、極めて稀です。理由は簡単で、女性はお金を払ってでも美しい撮影を希望されるケースが多いですが、男性でお金を払って撮影するというようなことは無いからです。
 
 
                               イヴァンさんにとって数少ない男性の撮影
 
 
–依頼仕事の写真撮影とコンクール向けの写真撮影の違いについて教えていただけますでしょうか?
先程も言いましたが、依頼仕事は依頼主に満足してもらうというのが最終地点になります。よく依頼主の意見、希望を聞いて、実現するのに100%の力を注ぎます。通常の依頼仕事では、奇抜なものを求められることはなく、一般的なものを皆さん希望されます。それ以外のコンクールや展示会向けというのは、全く異なって、聴衆や来場者に何を伝え、どんな自分の考えを伝えるかというのが最終地点となります。そこではまずは、私自身の考えが出発点であり、私自身の創造性を発揮、展開させていきます。そのため時に、奇抜に、一見わけのわからない、エネルギーあふれたものになったりするケースも多々出てきます。
 
 
–イヴァンさんが最近取り組まれた創造的な作品について少し紹介いただけますか?
最近、ウラジオストク経済サービス大学で写真講義を1年受け、卒業作品として「環境に適応する」というのをテーマとした作品を作りました。この作品を作った時、私の心には「収入的にも仕事的にも安定したカメラマンとしての道と不安定ではあるものの創造性を発揮し活かす道」という2つの道がありました。私はそういった葛藤を心にもっていましたが、最終的に創造性の道を歩んでいくという決心を固めました。この作品は、宇宙から久々に戻ってきた人が、その慣れない環境に適応していくというものを表現していますが、これはまさに私自身の心境や覚悟を現したものなのです。
 
 

 
 

 
 
                    卒業作品は宇宙から戻った人間がテーマでイヴァンさんの現在の立ち位置や心境も表されている
 
 
–イヴァンさんにとって良い写真とはどういうものでしょうか?
私は現代アートが好きなので、現代アート視点になりますが、私にとっての良い写真というのは、撮影者の視点、考えがきっちりと説明され、その写真を見て深く納得できるような作品です。もちろん美しい写真、技術といった面は欠かせませんが、それ以上に、撮影者の考えや作品への説明としうのがしっかりしたものが私にとっての素晴らしい作品です。この視点は私だけのものではなく、多くの写真家にとって重要な要素かと思います。というのも多くのコンクールでは、最終選考まで残ると、その作品の背景や撮影者の意図を説明するような機会が与えられ、そこで素晴らしい説明をする人が優勝者となることが多いからです。作品から受ける印象というよりも、作品とその背景、ストーリーの融合というのが最終的な作品の出来と言えるのだと思います。
 
 
–作品と説明というのは現代アートの楽しみ方としても重要でしょうか?
はい、圧倒的に重要で、説明や背景のわからない現代アートというのは、誰がみてもわからないものです。私もウラジオストク現代アート拠点「ザリャー」にもよく行き現代アートを鑑賞しますが、説明なしでは全く理解できません。展示会のテーマや作品への説明があって初めて理解ができるものです。写真撮影も現代アートの1つになることが多いですが、現代アートとしての写真鑑賞も同様です。例えば、晴れの日に道路に1人の人間が立っているというシンプルな写真があったとします。なんの説明もなければ極めて平凡な写真になります。ただその写真を撮った街には道路が1本しかなく、そこにいくために何日も要し、かつ晴れの日は1年に1日しかないというような説明があると、その1枚の写真に圧倒的な価値が現れ、単なる写真とは違った作品となっていきます。現代アートも現代アート的な写真も、背景や説明をまず初めに読んでから鑑賞するというのが王道だと思います。
 
 
–今、ロシアでイヴァンさんが好きな写真家はいらっしゃいますか?
写真家としても活動しつつ、学生の撮影した写真に、成功写真と失敗写真の解釈を加え、動画を配信しているイヴァン・クンヤゼフさん(ИВАН КНЯЗЕВ)が大好きです。写真家としても卓越していますが、それ以上に、1つ1つへの写真の成功要素をわかりやすく説明してくれるので、とても面白いですし、とても参考になります。色、光、角度など多方面から1枚の写真を分析するその試みは素晴らしいです。
 
 
                          ロシアの前衛写真界で人気のイヴァン・クンヤゼフさん
 
 
                   イヴァン・クンヤゼフさんは写真や芸術を、感覚ではなく論理的に学生に説明するのが特徴
 
 
–イヴァンさんがコンクールによく参加されるのはなぜですか?
写真家、カメラマンにとって最も重要なのは「名」です。名のない写真と異なり、「~という写真家の写真」というところまでいくのが写真家にとって大切です。他の写真家が撮影したものとはことなり、独自の風合い、視点を認めてもらい、そして私という写真家を認知し、その認知度を上げていくのが当面の私の課題です。そのためには様々にコンクールに参加するのがとても良い手段になります。コンクールで優勝するというのはそれほど重要ではなく、入賞しなくてもいいのです。私のオリジナリティー、私の写真を認知してもらう手段としてコンクールに参加するのです。今はとくにインターネットが発達していますから、参加作品はインターネット上で公開され、展示会後に私の作品、撮影方法が好きだと連絡してくれるケースも少なくありません。ロシアの展示会でロシア人には認知されなくても、その作品を評価してくれる人が、ベトナムやタイに沢山いるかもしれません。今はそういう国境を越えて作品やカメラマンが展開していく時代です。作品の評価は国や時代によって大きく異なることも多いですからね。
 
 

 
 
–偉大な芸術家は亡くなった後に認められるケースもありますが、イヴァンさんの作品も後世に評価を得るということも想定されていますか?
私はそういう偉大な芸術家ではないので、私が元気に生きている間に評価され認知されたいです。芸術や創造の世界では、後世に評価が高まるというのはよくあることですが、私は現在に生きている人間なので、やはりなるべく早く、少なくとも生きているうちに写真家としての名を高めたいです。生活もありますからね。
 
 
仕事としてのカメラと自己実現、創造性発揮のためのカメラと2つの板挟みで葛藤しつつ、創造性の道を選んだイヴァンさん。理想のカメラマンや、美、色彩等多岐にわたって熱く語ってくれるイヴァンさんが、今後どのように成長し、どんな写真を見せてくれるか楽しみです。今後も彼の作品を追っていきたいと思います。

ウラジオ発:ワイン店「ヴィノテラ」(英語名:Vinoterra)

アジムトホテルから徒歩2分のところにOPENしたワインのお店。店内は2構成になっておりワインやチーズの楽しめる飲食ゾーンとワイン販売ゾーン。常時100種類以上のワインが揃っている。

日本語名:ヴィノテラ
英語名:Vinoterra
メニュー表記:ロシア語
平均予算:1500~2000ルーブル

“>

ウラジオ発:グルジアファーストフードカフェ「アドジャリック ヒンカリ」(ロシア語名:АДЖАРИК ХИНКАЛИК)

グルジア料理で人気の小籠包のようなヒンカリと大きなパイにチーズののったハチャプリといった人気メニューに特化したカフェ。カジュアルに食べれるため、ランチタイム等近くのオフィスワーカーが訪れることも多い。

日本語名:アドジャリック ヒンカリ
ロシア語名:АДЖАРИК ХИНКАЛИК
平均予算:500~1000ルーブル
メニュー表記:ロシア語

“>

ウラジオ発:老舗ブリニーカフェ オーナー ナタリヤ・アレクサンドロヴナさん

ロシア風おかずクレープ「ブリニー」といえば、伝統的に各家庭で作るというのが当然の概念でした。その概念をくつがえし、家庭ではなく、外で食べるものという風に変えたのが噴水通りのカフェ「ウフティ ブリン(Ух ты блин)。旅行者が訪れる必須のスポットとしても各国ガイドブックに取り上げられています。今回はこのカフェのオーナーであるナタリヤ・アレクサンドロヴナさん(Наталия Александровна)に、お店誕生や、9年間も人々に指示される秘訣などについて伺ってみました。
 
 

 
 
–ナタリヤさんのご出身はどちらでしょうか?
生まれは中国綏芬河との国境地域である「ポグラニーチナヤ」という街です。両親が2人とも国境警備隊員だったので、そのエリアに住んでいました。小学校3年まではそこで、その後は他の街に移り、大学を機にウラジオストクへ来ることになりました。
 
 
–大学からカフェ「ウフティブリン」を開くまでについて教えてください
大学では国際経済学を勉強し、ある会社でフィナンシスト(金融スペシャリスト)として勤務しました。その後、夫と一緒に
若者向けの洋服屋を噴水通りの今の店の場所で始めました。その洋服屋は2年ほど運営しました。そして今のカフェ「ウフティブリン」に至ります。
 
 
–家庭で作るのが当然と考えられるブリニーのカフェをなぜ始められようと思ったのですか?
カフェ「ウフティブリン」を始める少し前に、子供が生まれたのですが、その子供の好物がブリニーでした。ただレストランやカフェで食べようと思っても、家庭料理であるブリニーを食べれるところがなかったのでした。ちょうど洋服屋を辞めようと思っていましたが、この噴水通りの場所を明け渡すのは惜しい気がして、それでブリニーカフェをやろうということになりました。まだその頃の噴水通りには英国カフェ「FIVE OCLOCK」しかない初期の頃です。お店がOPENしたのは9年前の5月9日です。
 
 
                                   人気散歩スポットの噴水通りで2011年にOPEN
 
 
–家庭で作るのを当然とするブリニーですが、なぜその専門カフェとしようと思われたのですか?
ブリニーは家庭でお母さんが作るというのが、その当時の概念でした。ただ当時すでに、お母さんも忙しくなっていて、ブリニーだけのために、生地をこねたり、フライパンで焼いたりという時間がなかなか取れない状況になっていました。この社会的環境の変化が1つです。それに加え、家庭で作るブリニーは大抵、ハチミツやスメタナ(サワークリーム)などの甘いブリニーとなります。家族の中には、甘くないブリニーを食べたいという人もいます。家庭ではそう何種類も作ることはできません。そういう状況から、ブリニー1本でもなんとか成り立つのではと思いました。
 
 
                            ブリニーは家族揃って食べるロシアの伝統料理の1つ
 
 
–ナタリヤさんのアイデアについて周囲の反応はいかがでしたか?
当時の飲食店関係者は、ほとんどがうまくいかないと思っていました。ブリニーは家庭で作るもの、しかも作り方が簡単だからわざわざカフェにお金を出して食べに来ないというのが、大多数の意見でした。
 
 
–ナタリヤさんのブリニーカフェがうまく行って皆驚かれませんでしたか?
うちのお店は2年目からは安定してきて、まずまずうまくいくようになると、真似するところも出てきました。ウラジオストクのみならず全ロシアで類似のカフェが出来ました。店名である「ウフティブリン」を使う店まで現れたのです。そのため、店名を商標登録したりもしました。当時は類似のカフェを運営していたお店も、1年、2年とたつとほとんどが消えてしまいました。
 
 
–ナタリヤさんのブリニー作りには何か秘訣があるのでしょうか?
この9年間、常に苦心するのが、OPENした時の味を保つということです。美味しいレシピでOPENしましたが、常にその味を出し続けるというのが、なかなか難しいことなのです。誰もが言うように、ブリニーそれ自体は難しい料理ではありません。秘訣があるとすれば、そのレベルの維持ということでしょうか。幸い長年勤めてくれるコックたちもいてくれるので、質を保つことができています。
 
 
                             毎日同じ品質を保つのが一番大変という
 
 
                             トッピングにも安定感が欠かせない
 
 
–豊富なメニューは誰がどのように決められているのでしょうか?
OPEN当初のメニューは大体30種類くらいで、私や主人が中心に決めました。ただその後は、どんどん増えていったのですが、それはお客さんや店のコックが要望やアイデアを出してくれたからです。OPENしてしばらくすると、お客さんが「チーズとパインナップルを合わせると美味しいんだけどメニューにしてくれないか?」というような自分の好みに合わせて要望を言ってくれるようになったのです。それをスタッフがきちんと拾い上げて、メニュー化していきました。コックはコックで、自分が美味しいと思う組み合わせを提案してくれて、それもメニューとして加えていきました。またここ数年旅行者が増えたのですが、旅行者は数人で来られて、何種類か頼んで1つのテーブルに並べることが多く、それを見たスタッフが旅行者用のセットメニューを作ったりもしています。今では50種類以上ありますが、これらはお客さんやスタッフとの共同作業のたまものです。
 
 
                         人気のサーモン&キュウリもお客さんの要望から生まれたもの
 
 
–人気メニューを教えて頂けますか?
定番で人気は、「ハム&チーズ」「チョコ&バナナ」です。この2つはロシア人、旅行者問わずよく出るメニューです。旅行者だけによく出るメニューというのもあって、それが「イクラ」です。ブリニーにイクラをのせたものは旅行者向けには定番メニューとなっています。
 
 
                              ここ数年で急増する旅行者はイクラ入りを選ぶ
 
 
–ウラジオストクで飲食店を約10年も続けるのは非常に大変かと思いますが、従業員教育などで気にかけていることはありますか?
スタッフとの良い関係作りは常に心掛けていて、単に労働者と会社というよりも、もっと友人的な関係性を持てるようにしています。スタッフは家庭生活などでも問題や悩みを持っているような時がありますが、そんな問題や悩みも相談にもいつでものっています。たまに金銭上の問題を抱えている場合もあるますが、そんな時にもできるだけ聞いてあげるようにはしています。親しい友人に接するように、お互いが助け合うような環境づくりです。親しい友人とはバーベキューに行ったり、新年を一緒にすごしてゲームしたりしますよね、それと同様にお店のスタッフともできるだけ、そんな時間をもつようにしています。ただ洋服屋時代に、あまりに友達関係になってしまい組織として上下関係が全く機能しなくなってしまったので、今のカフェでは親しい友人関係を基礎としつつ、組織としての上下も忘れないようにはしています。こんな感じで運営してきましたが、幸い長く勤めてくれる人もいて、ナスチャやジェーニャは8年も一緒に働いてくれていますよ。
 
 
                          全業務をこなしお店の顔でもあるナスチャさん(左)とジェーニャさん(右)
 
 
–「ウフティブリン」を他の都市で行う計画はないのですか?
実はハバロフスクやサハリン、その他の都市でフランチャイズをやりたいという声を結構いただいてはいるんです。ただ、他の都市では味やサービスに責任を持てるような気が今のところしません。9年間育て、人々に指示してもらったこのカフェの名に恥じないようなことが確信できれば、フランチャイズも考えないわけではないのですが、まだ時間がかかりそうなので、当面、他の都市、フランチャイズといった計画はありません。
 
 

 
 
–新しいお店「ババ トーマ(БАБА ТОМА)」について教えて頂けますか?
「ババ トーマ」はロシアの伝統家庭料理である「ピロギ」(ロシア風パイ)を中心としたお店です。テイクアウトを中心としているため、席数は少なめです。店名の「ババ トーマ」は夫の祖母が「トーマ」であったため、そこから取っています。ババはおばあちゃんという意味です。
 
 
                               2つの店舗は歩いて1分の距離にある
 
 
–なぜピロギのお店にされたのでしょうか?
私達の事業の使命は「ロシアで失いかけている家族や世代間の温もりある集いや繋がりを思い返す」で、その使命に基づいて出てきたアイデアがピロギです。ブリニーもそうですが、ピロギは伝統的にお祖母ちゃんやお母さんが作って、それに子供や孫、皆が集って食べ、一緒に時を過ごすという、家族や世代を結び付ける食べ物です。夫はトーマおばあちゃんが子供時代に頻繁にピロギを作ってくれ、それを食べて家族と過ごした時間を温かい幼少期の思い出として今も持ち続けています。ピロギというのはロシア人にとって、そんなそういうシンボル的食べ物なのです。ウラジオストクでは似たようなテイクアウトの食べ物としてはピザがあり大全盛ですが、ピザは外国の食べ物で、しかも、そういう温かい家庭を思い返すような力はありません。温かい家庭や世代のつながりを思い返させることのできるピロギこそが私達が提供するべき商品だと思いますし、他の人がやらないことこそ私達のやるべきことだと思っています。
 
 
                           大きなロシア風パイ「ピロギ」は世代を結び付ける食べ物
 
 
                            ひき肉、キノコ&チキン、チェリーなど数種類ある
 
 
–ロシアでは家族や世代間の繋がりが薄れているのですか?
私は海外旅行が大好きでアジアや他のヨーロッパ諸国もいき、観察しますが、ロシアでは家庭的、世代的なつながりが薄れてきているように感じます。仕事で忙しくなったり、家族や世代間の繋がりに重きを置かない傾向が出てきたりといった理由からかと思います。
 
 
–ウラジオストクで好きな場所はどこですか?
私は海と山が大好きです。時間があれば海や山に行きます。海も山も人間にエネルギーを与えてくれて、私の生きる活力源です。まだまだ実現に遠いですが、海のそばですぐそばに山があるような場所に一戸建てを持てたらどんなにいいだろうなぁと思っています。もちろんウラジオストクの住人なので、マリンスキー劇場や、ゴーリキー劇場も好きな場所で、よく行きますが、私のとっては海と山がベストポイントです。
 
 
                              海と山からもらうエネルギーはナタリヤさんの活力源
 
 
–ウラジオストクで好きな飲食店と理由について教えていただけますか?
「ZUMA」と「ツェフ(ЦЕХ)」です。ZUMAはいいメニュー作りをされていて、それでいていつも変わらず美味しい。「ツェフ」は古い壁のインテリアもなかなかですが、料理自体が少し面白いものがありつつ安定感があります。コロナ前は「OLD FASHIONED」という潜水艦近くのお店も好きでしたが、コロナで閉店となってしまい、ちょっと残念です。
 
 
                     日露戦争時期の壁をそのまま使ったユニークな店内の「ツェフ(ЦЕХ)」がお気に入り
 
 
–「ウフティブリン」も「ババ トマ」も赤レンガの内装が可愛らしいですが誰が手がけているのですか?
内装デザインついては結構人任せな部分もあって、基本的にはデザイナーさんに任せています。工事に関しては、基本的には内装職人さんにやってもらいますが、スタッフが自分達でいろいろ手作りで加えたりして自分達色が少し出るようにもしています。うちの夫は自分の仕事があるので、カフェの運営にはほとんどタッチしませんが、内装作業に関しては少し手伝ってくれて、内装の時期になるとお店に顔を出してくれます。因みにうちのお店では毎年年末に内装を変更するようにしています。
 
 
                              内装にはスタッフやご主人も関わる
 
 
–最後に将来的な計画や夢がありましたら教えてください?
直近のものとしては「ウフティブリン」の2号店をセダンカシティーにOPENします。ここ数年旅行者が急増して、地元ロシア人のお客さんが、なかなか席を確保できないということがありました。セダンカシティーのお店は、そんな地元のロシア人のお客さんに向けたお店です。それ以上の計画については今のところありませんが、いずれにしても私達の使命は「ロシアで失いかけている家族や世代間の温もりある集いや繋がりを思い返す」ということなので、この路線に沿い、かつ他の人が取り組まないものを手掛けていきたいと思います。個人的なところでは、さきほども言ったように、海の戸建てですが、これもだいぶ先ですね(笑)。
 
 
                             孫とお祖母ちゃんなど3世代で利用するお客さんも多い
 
 
ナタリヤさんのモットーは「誠実」「明朗」「好意あふれる」なのですが、スタッフへの接し方や、お店のミッションからも彼女のモットーが感じられました。そんな彼女の思いや態度がスタッフにも伝わり、スタッフの定着率にもつながっているのがわかります。簡単で競合も現れやすい「ブリニー」という国民的おやつで9年も一線を行くナタリヤさんですが、彼女の事業がどのように展開し、どんなロシア庶民料理で家族や世代の絆を創出してくれるか楽しみです。

お店の紹介:http://urajio.com/item/0139

ウラジオ発:写真コンクール「Look at Vladivostok」主催者 ヴィタ・ヴィタグラさん

ウラジオストクで8年目を迎える名物写真コンテスト「Look at Vladivostok」。ウラジオストクで撮影された数千枚の写真を審査し、最終的には本になって店頭に並ぶという大規模プロジェクト。このプロジェクトを1人で立ち上げ、ほぼ1人で運営する女性がヴィタ・ヴィタグラさん(Вита Витагра)。今回は彼女にプロジェクトを立ち上げた経緯や、写真、そしてウラジオストクの魅力について伺ってみました。
 
 

 
 
–ヴィタさんのご出身はどちらですか?
ウラジオストクで生まれ、ウラジオストクで育ちました。双子の妹が15年前よりモスクワに住んでいるのですが、双子の性で常に2人で居たため、私が遠くウラジオストクにいるのが寂しいらしく、ずっとモスクワに呼ぶんです。それで2年前に私もモスクワに住むようになりました。彼女は結婚して夫がいるのですが、すぐそばで私も住んでいます。愛犬バシリーサの世話もたまにしてもらいますよ。
 
 
                            カメラは持たずとも、愛犬バシリーサはいつも携帯する

 
 
–ヴィタさんが写真やカメラに触れるようになったきっかけを教えてください。
ソ連時代でもよくあったとですが14歳の時に父と母が離婚しました。父は他の女性と家庭を持つことになったのですが、その父がカメラや沢山のフォト用紙、現像機などを残していったんです。父は海上で仕事をしているいわゆる海の男でしたので、海外からカメラや機材を持って帰ってきては、写真撮影を自分の趣味としていたのです。私には2人の男兄弟と双子の妹がいて、4人でカメラをいじって遊びましたが、結局私が一番上手にカメラを扱い、私も写真撮影が好きだったので、どんどんカメラにはまっていきました。
 
 
                        お父さんの残してくれたカメラがカメラマン人生の始まりとなった                      
 
 
–当時はどういうものを撮影されていたのですか?
当時も今も、私の専門は人の撮影です。人の顔、家族写真、肖像などを撮影しています。人を撮影するようになったのは、まさに14歳からで、学校にカメラを持って行ってはクラスの友達を撮影し、そして家で現像してはプレゼントしていました。父が大量のフォト用紙を残してくれたので、私にとっては大したことでなかったのですが、ある時から友達がお金をくれるようになりました。ソ連時代でもあり、そんなお金を受け取るのはいけないとされていたのですが、用紙代にとどうしても皆が言うので、ありがたく受け取ることにしました。毎日代わる代わるの友達がくれるので、結構いいお小遣いになっていました。
 
 

 
 
–学校でカメラを持って行っても問題なかったのでしょうか?
ロシアでは今もおそらくその手の事は問題視されませんが、ソ連時代は更に牧歌的だったので全く問題になりませんでしたよ。
 
 
–義務教育卒業後はどうやってカメラを勉強されたのですか?
ソ連崩壊時期の1990年に1年間専門学校で学び、その後2年間専科大学に通いました。
 
 
–その当時のカメラマン教育機関というのは今とは異なるのでしょうか?
現在はカメラマンや写真撮影というのは、どちらかいうと芸術の一部となっていますが、当時は完全に単なる技術労働の1つで、修理工や理容師と同列に扱われ、それらが一体となった学校で学ぶ領域でした。ロシアでは伝統的に家族写真や肖像画を写真館で撮影するのですが、その写真館で9時から18時まで仕事するというのがいわゆるカメラマンの仕事でした。今のカメラマンの多くは、フリーランスですが、当時は枠にはまった固定した仕事で、教育機関もそれに合わせて国より営まれていました。
 
 
                       ソ連時代のカメラマンといえば写真スタジオでの勤務といった職人作業であった

 
 
–当時のカメラマンと今のフリーランス的カメラマンどちらが肌に合っていますか?
起きたい時に起き、行きたい時に外に行き、仕事があれば出かける、そんなフリーランス的自由な生活が私には合っていると思います。
 
 
–どんなきっかけで「Look at Vladivostok」を始めようとされたのですか?
2012年仕事でモスクワに滞在している時に、ロシア全土を扱った写真展を見ることがあったのですが、そこでは全くウラジオストクの写真がありませんでした。ウラジオストク人の私としては、残念な気持ちもあり、ぜひウラジオストクの素晴らしい写真を集め、色んな人に見てもらいたいという意欲が湧きました。そして2013年にウラジオストクで「Look at Vladivostok」を始めたのです。皆にウラジオストクの素晴らしい風景、人を見てもらいたいというのが一番の動機ですが、それと同時に私自身もウラジオストクの色々な風景、色々な角度、色々な視点で見たいというのがあったのです。私は、人の顔や肖像を撮影するのが専門で、ウラジオストクの風景や街は意外と見れていないので、このプロジェクトを通じて見られたらな良いなと思いました。
 
 
                            2013年に始まった「Look at Vladivostok」
                          
 
 
                              表彰式には毎年メディアでも取り上げられる
 
 
                              2020年の展示は映画館オケアンで行われた
 
 –「Look at Vladivostok」について簡単に教えて頂けますか?
2013年に始まって今年で8回目を迎えました。参加者は年々増え、今年は551人の参加者が計2359枚の写真を送ってくれました。最終選考には160枚がノミネートされ、それらが大きなパネルとなって展示され、本となり出版されます。毎年、テーマがあり、今年のテーマは4部門で「光と色」「感情と性格」「瞬間」「多重構想」でした。写真の募集は毎年1月1日から3月20日前後です。2020年分の写真展が来年開かれますが、その募集は2021年1月1日から3月21日の予定です。そして展示及び本の出版は2021年7月頃となります。今年は600冊を印刷しました。参加費は一切無料で、1人につき5枚までの写真を送ることができます。最終選考に残った参加者全てに本を贈呈し、そして各部門1位~3位までにはトロフィーに相当するもの、1位にはカメラ(SONY社提供)を贈呈しました。
 
 
                          パネルは展示が終わると全作品が受賞者にプレゼントされる                        
 
 
                          最終選考に残った全ての人にプレゼントされる記念アルバム              
 
 
                      上位入賞者には職人手作りのメタル製の船が贈呈され入賞者に大好評                         
 
 
–参加者の内訳について教えていただけますか?
ほぼ全てがウラジオストク在住のプロカメラマンと愛好家です。ウラジオストクを旅したカナダ人がいて、今年参加してくれましたが、外国人はほぼ皆無です。
 
 
                           上位入賞者は今のところ、ベテランのプロカメラマンが多い
 
 
                            参加は地元ウラジオストクの人が中心となっている 
 
–外国人も参加可能なのでしょうか?
もちろんです。なるべく多くの人、多くの視点でウラジオストクの魅力を集めたいと思いますし、その方が圧倒的に面白いです。来年は初めて日本人の審査員も招待したいと思っていて、旅行者を始めとして多くの人に参加してもらいたいと思います。今のところ、このプロジェクトの運営は私1人で行っていて、外国人というところまで力が及んでいませんが、ウラジオストクを訪れる外国人の参加は大いに発展させたいところです。
 
 
                   旅行者をはじめとした外国人視点の写真もどんどん取り入れ作品に幅を持たせたいという                   
 
 
–ヴィタさん1人で運営されているのですか?
私には幸い沢山の友人がいて、いろんな面で助けてくれ、また協賛してくれる企業もありますが、ほとんどのことは私1人で行っています。審査員を決めたり、会場を手配したり、本を印刷したり、協賛企業を見つけたり、できることはほぼ全てやります。2000人に招待状を送りましたが、これも私が各人に送りました。今年は自分でクラウドファンディングにも挑戦し、ウラジオストクの友人達が420000ルーブル(約70万円)ほど寄付してくれました。
 
 

 
 
–このプロジェクトにかかる費用はどのように捻出されているのでしょうか?
初年度から数年前までは、協賛し経済的に援助してくれる企業もあったのですが、ここ数年は金銭的な援助が途絶えてしまい、ほぼ自腹で行っています。今年もクラウドファンディングで多少カバーすることはできましたが、4分の3は自腹で賄いました。私は大体のことはできますし、いろんな方面で助けてくれる友人達もいるのですが、典型的なロシア人としての欠点で、お金を工面するのが苦手なんです。とはいえ、私はこのプロジェクトが大好きですし、何より参加者や観覧者が皆喜んでくれるので、それが私にとっては何よりの喜びなので、ずっと続けるつもりですよ。
 
 
–ヴィタさんは日頃どのようにお仕事されているのでしょうか?
家族写真や肖像を撮影するフリーランスです。ただ長年の評判があるので口コミで色んなところから声をかけて頂けています。それと最近は講義したり、撮影法を教えたりといったカメラ教育に関する仕事も増えています。
 
 
                                   ヴィタさんの作品1                      
 
 
                                  ヴィタさんの作品2
 
 
                                 ヴィタさんの作品3
 
 
–「Look at Vladivostok」の8年間変化を教えて頂けますか?
参加者の増加もそうですが、写真のクオリティー、審査員のレベルとも上がり、プロジェクトのレベルは毎年向上しています。
始まった当初、審査員はプロカメラマンのみならず、ジャーナリストや画家など他分野の人も集めて審査していましたが、今では厳選されたレベルの高いプロカメラマンのみを審査員としています。また最近はスマートフォンのカメラがとてもレベルが高いものになっていて、スマートフォンによる上位入賞も増えています。
 
 
                          審査員も見分けが付かないという最近の高機能スマートフォン
 
 
–スマートフォンの写真と、従来のカメラによる写真は見分けつきますか?
正直言って、見分けつきません。カメラ機能の高いスマートフォンで撮影した写真はまったく遜色ないです。 
 
–スマートフォンやインスタグラムの流行はどのように感じますか?
多くの人が、手軽に写真撮影し、楽しめるようになっているのはとてもいいことだと思います。私自身も普段は重いカメラを持たず、スマートフォンばかりで撮影していますよ。
 
 
–ヴィタさんにとってウラジオストクの魅力とは何でしょうか?
ロシア全土は、多くが平地で平らな風景が多いのですが、ウラジオストクは例外ともいうべき坂や丘のある風景になっています。この地形はロシア全土でも見たことがないですし、これほど写真が綺麗に、多角的に撮影できる場所もないと思います。傾斜にマンションが並ぶ風景なんて、他のロシア都市ではありえないですよ。この地形こそが一番の魅力だと思います。また個人的にはここの気候、特に強い風が大好きです。風が吹くとおもわず手を広げて、背中一杯で風を受けてしまうんです。
 
 
                        ロシアの他の都市では見ることのできない傾斜に並ぶマンション群                        
 
 
                                 傾斜がもたらす独特の風景                 
 
 
–ヴィタさんにとってウラジオストクの人の魅力は何でしょうか?
なんにでもすぐ反応してくれて,人助けが大好き、そしてエネルギーあふれ、かつ親切、これがウラジオストクの人の特徴で魅力です。
 
 
–どんなカメラマンが良いカメラマンだと思いますか?
いろんな出来事、風景、物に感動し、日常の中にも感動や新しさを見出し、それをカメラに収め続ける。そんなカメラマンが私にとっては良いカメラマンだと思います。良いカメラマンは良い観察者であり、良い発見者とでもいうのでしょうか。
 
 
–写真とはどのような人々にとってどのような存在だと思われますか?
多くの人も言うと思いますが、タイムマシーンというのが写真の役割かと思います。家族写真にしろ、風景写真にしろ、その時を写真に収め、そしてそれを見ればその時を思い出させてくれます。そして私自身も被写体の生きる、輝いた一瞬一瞬という時を収めているという意識です。
 
 
–最後にヴィタさんの夢を聞かせていただけますか?
「Look at Vladivostok」は、まだウラジオストク1都市ローカルな存在で、ウラジオストク住人にしか知られていません。これをロシア全土で知る人が増え、さらには他の国でもこのプロジェクトが知られるようになって、誰に尋ねても「Look at Vladivostokは当然知っているよ」と返って来るようになったら最高ですね。これが私の一番の夢です。二番目はこの展示を室内でなく、屋外の色んな場所を使ってできれば、これも面白いと思います。
 
 
                           ウラジオストクの家庭では毎年購入する人も少なくない
 
 
                          ロシア国内外で多くの人に知ってもらうのがヴィタさんの夢
 
 
常に元気、ポジティブで前しか見ていないと多くの人が評するヴィタさん。そんな彼女の周りには多くの友人、知人が引き付けられ、思わず手助けをしてしまうと言います。参加者も援助の輪も広がっている彼女のプロジェクトはきっと今後も色んな人の助けによって発展しそうです。8年も続き、ウラジオストク住民の年中行事にもなっているヴィタさんの活動がヴィタさんの夢の通り、ロシアのみならず海外にも響き渡っていくのも遠い将来ではなさそうですし、それを期待したいとも思います。

Look at Vladivostok公式サイト:https://lookatvladivostok.ru/

ウラジオ発:カクテルバー「モスティ」(英語名:МОSТЫ)

人気バーガーカフェ「DAB」の隣にOPENしたカクテルバー。オリジナルカクテルを中心としつつ、ワイン、ウイスキー、コニャックなど豊富なアルコールが楽しめる。食事も充実しており、生け簀のカニも味わえる。

日本語名:モスティ
英語名:МОSТЫ
メニュー表記:ロシア語、英語
平均予算:1500~2000ルーブル

“>

 

Categories

Locations

ウラジオcom運営会社

ミツモリヨシヒロさんの世界を少しだけ丸くするプロジェクトin ウラジオ