8年前のウラジオストク山田前総領事とのヒョンな縁からウラジオストクの音楽、芸術界と関わることに
なった音楽プロデューサー(兼ホルン奏者)の今瀬康夫さん。ウラジオストクの音楽、芸術界では知らない
人はいないという程の有名人。
今瀬さんの活動は以下のように本当に幅が広い。
・日本から様々な分野の演奏家、ミュージシャンを連れてきてウラジオストクでコンサートを開催。
欧米各国の有名JAZZバンドの集まるJAZZフェスタにも日本人を送り込む。
しばし今瀬さんもホルン奏者として舞台で演奏することも。
・日本のアマチュア―音楽隊向けのコンサート開催。
アマチュア楽団だからこそ感動を呼び地元紙で取上げられることも多い。
・日本の音楽家、演奏者達と現地学校との交流事業。
小学校や音楽学校でも日本との交流は常に歓待される。ロシア人親子共々大喜び。
・ウラジオストクのプロ音楽家を日本に招待し、日本各地でロシア音楽コンサートを開催。
生まれの島根県から出発し、秋田、東京など日本各地でウラジオストクの音楽隊コンサートを開催。
・ウラジオストク国際音楽コンクールの審査委員長として学生審査と各国審査員達の指導。
ロシア、中国、韓国の学生なども公平に指導、激励する。時に厳しい面も見せる。
・マリンスキー劇場、フィラルモニア音楽ホールなどへのプログラム、運営の提言、指導。
2018年はマリンスキー劇場、フィラルモニア音楽ホール、芸術アカデミーの共同体制を呼び掛けている。
・極東芸術アカデミーの名誉教授として音楽家やその教師陣への指導。
自分の耳には妥協しない姿勢で審査員からも一目置かれて審査委員長へ推された。
・ウラジオストク国際映画祭のサポート。
2011年の映画「カルテット」の音楽プロデューサーとして鶴田真由さん.剛力彩芽さん等に指導する。
・日露各都市からの要望によるコンサート、芸術イベントの企画、手配。
・在ウラジオストク日本総領事館による要望による音楽事業の企画、手配 etc
まだまだ書ききれないが、とにかくこの音楽、芸術方面においては圧倒的な日本人である。
このように書くと権威ある偉い感じの音楽プロデューサーであるが、至って普通、むしろかなり地道に1つ1つの仕事をこなしている
という感じである。 今回は音楽プロデューサー、名誉教授として派手にみえる裏側の地道な活動を1週間追ってみた。
今瀬康夫さんのウラジオ1週間(2018年4月)
第1プロジェクト:国際音楽コンクール審査委員長(各国偏りなく公平を貫くのが素晴らしい)
月~金まで午前9時~午後7時過ぎまで何百組の審査を行う。
中国、ロシア人の審査員達との議論もかなり熱を帯びる。(ややお疲れ)
第一審査、第二審査が終わり、表彰前にここでも侃々諤々。左奥はウラジオNo1指揮者スメルノフ氏。
1週間の審査を終え、日曜日に表彰式。1等の学生のみ演奏ができる。ホールは超満員。
日本から参加の和田志織さんは見事弦楽器(17-20歳)で1位となり演奏。
表彰状の授与と記念撮影も重要な審査委員長の仕事。
1週間のコンクールの成功と審査員である音楽家達との友情に乾杯!
第2プロジェクト:加藤登紀子さんのウラジオコンサート現場確認
加藤登紀子さんのコンサートが6月に約25年ぶりにウラジオで開催される。
コンサート会場のフィラルモニア音楽ホールの代表アンナさん達とリハーサル、音楽機材等について入念に打ち合わせ。
第3プロジェクト:マリンスキー劇場からの招待と打ち合わせ
バレエ、オペラのマリンスキー劇場より打ち合わせを兼ねた鑑賞の招待。
マリンスキー劇場との運営提携、その他日本人音楽家の招待等について運営責任者のティトフさんと打ち合わせ。
第4プロジェクト:アルチョム市コンサートの打ち合わせ
ウラジオストク空港のあるアルチョム市は文化芸術交流に力を入れ、10月に今瀬さんが率いる楽隊のコンサートを招聘。
アルチョム市副市長のデン氏と夕食を取りながら10月のコンサートについて相互確認。
御多忙の1週間終了
朝から夜遅くまでの超多忙な1週間。さすがにお疲れのご様子。ウラジオストクの坂が少しきつそう。
番外編1:今瀬康夫さんの御土産に対する気遣い
一見、音楽と関係ないのだが、お土産に対する今瀬さんのセンスと心遣いに驚嘆するロシア人、日本人が多い。本人曰く、決して高
いものではないのだが、受け取る人の境遇や好みを考え常にアイデアを巡らせてお土産を持ってくる。しかもトランク一杯にであ
る。ある日本人にはウラジオストクでは手に入らないであろうと、地方の港で購入した海産加工品を渡したり、液体で重いおでんを
持ってきたりする。あるロシア人が象の置物が好きというと、海外公演にいった場所で象の置物を購入し、数千キロの飛行を経て、
ウラジオストクでプレゼントしたりする。海外と日本をつなぐ音楽プロデューサーとしての今日の今瀬さんの成功と関係があるよう
な気がしてしようがない(考えすぎか・・・、いやお土産で感動を生むのと音楽で感動を生むのは共通しているにちがいない。)
おでん汁がだいぶ重いと思われる紀文のおでん。異国ウラジオストクで食べると格別である。
番外編2:極東エリアと今瀬さんの父,正夫さん)
今瀬さんの父,正夫さんは商業高校を卒業し台湾商工銀行へ入行、その後ハルビンで朝鮮開発銀行という銀行で勤務することになりま
した。第二次世界大戦が始まる前で1930年代の後半です。当時ハルビンは日本国における満州開発の拠点で、その満州開発における
資金を扱う銀行として日本国が設立した国営であり、そこで勤務できるのは最低でも大卒が要件だったそうで、いわゆるエリートが
勤務できるところでした。正夫さんは、今瀬さんに似て(?)要領もよかったらしく、そのような所で仕事ができたようです。
満州開発の一番の拠点であった当時のハルビン
正夫さんは若いながら管理職でした。その部下の中には稀に日本国の植民地支配下であった朝鮮(今の韓国と北朝鮮)の人達も何人
かいました。当時、このような朝鮮の人達は日本国民でありながら、日本人よりもかなり低く扱われ、銀行勤務できるような人は極
めて優秀でした。正夫さんは、日本人の部下も朝鮮人の部下も全く分け隔てなく接していたようです。それが証拠にお父さんは朝鮮
語を一生懸命学習し、流暢に話すことができました。当時では植民地側の言葉を勉強するというのは非常に稀なことでした。
1940年前半になると戦火がハルビンにも及ぶようになり、ソ連軍の横暴がハルビンでも始まりました。ついに1943年(昭和18年)
には現地徴集で陸軍に経理将校として入隊することになります。その後、終戦を迎えます。終戦後、小隊を率いてシベリアへ列車で
行く途中、命の危険を感じた正夫さんは、何名かの部下(日本兵)とともに大脱走を試みます。
あのままシベリアへ行っていたら今瀬康夫さんは誕生していなかったかも・・・・
大草原の中、ソ連兵のすきを見ての大脱走、命がけで、一目散に逃げました。そして当時の庶民に自分の制服とその人の極めて貧し
い庶民の服を交換してもらい、庶民の恰好を手に入れました、映画さながらの大脱走劇です。
満州国の首都であった当時の長春(旧名:新京)
一般庶民の恰好を得たお父さんは命からがら長春(当時の首都新京)までたどり着き、一般庶民としての生活が寒い長春で始まりま
した。(長春でもいろんなことがありましたが割愛)
その後は無事島根県松江市に戻り、日銀勤務のお母さんと結婚し今瀬康夫さんの誕生となりました。
戦争から約35年たったある日、アメリカロサンゼルスの朴さんという方から正夫さん宛に1通の手紙が届きました。
非常に達筆な完璧な日本語での手紙でした。それは何と正夫さんの銀行時代面倒みていた部下からの手紙で、そこには以下のような
ことが書かれていました。
・朴さんは正夫さんの銀行時代の部下で何とか戦争で生き残れたこと。そして戦後アメリカにわたることができ、ビジネスで大成功
をおさめ平和に暮らしていること。
・朝鮮開発銀行勤務時に正夫さんが国籍の別なく朴さんにも接し、丁寧に教育してくれたおかげで今日の朴さんがあるということ。
・感謝の気持ちを表したく、なんとか連絡とろうと何年も試みたが、住所がわからず連絡が今までとれなかったこと。
息子の今瀬さんも含めて、ロサンゼルスの朴さん宅へ招待を受けたものの、いきずじまいになっているようですが、いつか今瀬さん
も朴さんやその家族に会えればなぁとのことです。
正夫さんは普通のお父さんだったようですが、このような正夫さんと朝鮮人朴さんのやりとりを見て、父親ながらわずか22-3歳の
若造が立派なことをしていたのだなぁと感じたそうです。
日本に戻っては商工中金勤務のお父さんだったらしいですが、このような父正夫さんの満州時代の話や朴さんとのやり取りが、今日
の今瀬さんのウラジオをはじめとした海外との活動に、良い意味で影響をあたえているのでしょう。
PS:今瀬さんは幼少時代、島根―京都―北海道―長野と転勤生活を余儀なくされたそうです。北海道時代には、差別され教育の受け
られないアイヌ人達の生活を目の当たりにしたり、ロシア革命でロシアから北海道へ逃げてきたロマノフ王朝の貴族家族たちの優雅
さも今瀬さんの極東ロシア(旧満州開発エリア)への関心につながっているようです。
2019年11月追記:今瀬さんのお父さんの正夫さんの体験手記がついにPDFで登場。戦後すぐの動乱を鮮やかに描く!➡MR IMASE FATHERS STORY PDF
取材,責任執筆:宮本智
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