ウラジオストク市内で人気の留学先となっているウラジオストク経済大学。その留学生部門を取りまとめる所長がヴィクトリヤ・ヴァリリエブナさん(Виктория Вальрьевна)。いつも元気で明るく、生徒にも先生にも優しく声をかける留学部門の長にお話を伺ってみました。

—-お生まれはウラジオストクでないそうですね?
生まれたのはハバロフスク州のアムルスクというところです。7歳の時にウラジオストクに来て、それからはずっとウラジオストクです。
—-今の御仕事をされるまでの経緯を教えていただけますか?
学生時代はウラジオストク極東連邦大学でロシア語と文学を学びました。
—-今、経済大学でロシア語を勉強する留学生が増えているようですね?
お陰様で今年は前年比で2倍になりました。中国のハルビンなどの東北部からの学生が増えていますし、
今年はなんといっても韓国人の学生が増えましたね。日本からは、新潟の大学と提携できて、そこから数名の学生が来ました。日本人学生の割合が少ないので、ぜひ増やしたいです。
—-経済大学のロシア語コースの人気の理由はなんですか?
温かい家庭的な雰囲気を大事にしています。先生と学生は親と子、時には友人のような関係となります。そのような関係を大切にしています。我々の大学は大きくなくて、先生が全ての学生に目が届きます。大きい大学ですと、どうしても1人1人まで配慮がいかなくなります。我々の強みはその辺にあると思っています。
—-ここの先生達はロシア語教育のレベルも高いですが、それ以上に人柄が良い人が多いですよね?
そうなんですよ。ここで先生として採用する際には、まず試用期間で我々の雰囲気に合うかじっくりみます。そして我々の雰囲気、基準に合った先生のみが正規の先生として採用されるわけです。

—-ここの先生達に求められるのはどんな資質ですかね?
「柔軟性」と「厳格さ」です。この2つは相反するようにみえますが、この2つが我々の求める先生です。
留学生は外国人ですので、ロシア人には想像できない発想や行動をすることがあります。そんな時でもあわてず
柔軟に、場の雰囲気を保っていく能力が先生には必要です。柔軟さとは先生が生徒の基準に合わせていくような力ですね。それだけでは幼稚園になってしまいますね。ロシア語学習は教育ですので、先生としての厳格さも必要です。学生にはちゃんと勉強もしてもらわないといけませんからね。そういう意味で厳格さは必要です。
現場ではどちらも必要になるので、この2つの資質をバランスよく持つというのが我々の共通認識です。

—-ロシア人学生と留学生の交流事業も頻繁におこなっていますよね?
ロシア人学生の中には留学生と交流したい子も沢山います。留学生はロシア人と交流したいですよね。それを結びつけるようなイベントは頻繁に行っています。ロシア人学生も照れ屋が多いので、半強制で参加させたりします。その結果、イベント後ずっと友達としてつきあっていくような関係に展開するのも多いんですよ。
—-ヴィクトリヤさん自身はロシア語の先生と所長としての2つの顔がありますが、どちらが御自身に合っていますか?
いろんな関係づくりしたり、イベントを企画するのが好きなんです。エネルギーもある方なので、たぶん所長として全体を動かして行く方があっているかもしれませんね。先生としてロシア語教えるのも好きですけどね。

小さいことにこだわらず、それでいて先生と学生のことを配慮できるというバランスがヴィクトリヤさんからも感じられる。先生達もヴィクトリヤさんの背中を見て、バランスを身に着けていくのだろう。
ロシア皇帝時代の役人の邸宅を保存、公開したスハノフの家ミュージアム。そのミュージアムの受付、案内係として活躍するのがヴィクトリヤ・ドミトリーブナさん(Виктория Дмиториевна)。1900年初頭、祖父母の時代に朝鮮からウラジオストクにきた朝鮮系ロシア人である。そんな彼女に半生と今の生活を聞いてみました。

—-生まれはウラジオストクですか?
1900年代の初頭に祖父母が朝鮮からウラジオストクに来ました。その後、1936年にスターリンの政策により
カザフスタンに強制的に送られました。両親はカザフスタンに送られた2年後である1938年に生まれました。
その後、ウズベキスタンに移り、私自身はウズベキスタンで生まれました。6人兄弟で、1人は小さい時に亡くなりました。
—-なぜまたウラジオストクに住むことになったのですか?
研究者であった夫がウラジオストク出身だったんです。夫は仕事の関係でウズベキスタンに来たんです。というより私に求婚にきたんですね(笑)。そういう時代だったんですよ。周りの知人や家族は皆反対しましたが、夫の強い意思もあって、最後は両親を彼が説得してウラジオストクに来ることになったんです。ウラジオストクに来て30年強です。
—-ウズベキスタンから遠いウラジオストクでの生活は大変じゃなかったですか?
ずっと平穏ですよ。娘と息子もウラジオストクで産まれて、もう大きくなりました。上の娘が30歳、息子が27歳ですね。夫は8年前になくなりましたが、生活はおかげさまでずっと安定しています。幸せですよ。

—-スハノフの家での御仕事はどうですか?
スハノフの家での仕事は4年目です。その前もアルセーニエフ博物館で仕事していたので、かれこれ10年近く、博物館の業務に携わっています。主な業務は切符売って、カンタンな事務仕事することですが、
土日には館内を案内したりもしますよ。

—-朝鮮語は使うことあるのですか?
私の母国語はウズベキスタン語とロシア語です。恥ずかしいのですが朝鮮語(韓国語)はほとんどわかりません。
私は祖父母などの朝鮮語を聞いたりする機会がありましたが、娘と息子に関して言えば、まったくそういう環境がないので、挨拶さえもできません。完全にロシア語での生活です。みかけは朝鮮人ですが中身は完全にロシア人ですよ。

ウズベキスタンで生まれ、遠方のウラジオストクで暮らすというなんともダイナミックな人生に聞こえたのですが、本人はいたって淡々とされていました。ロシアの1.5%を構成する朝鮮系ロシア人の歴史と現在の生活をかいまみせてもらった気がしました。
ウラジオストクを代表する芸術家育成機関「極東芸術アカデミー」の絵画部の学部長で、プロの画家としても
活動するナタリヤ・ポポヴィチ(Наталья Попович)さんに絵画や芸術についてお話を伺いました。いつも穏やかなナタリヤさんで学生にも慕われる先生でもあるのですが、芸術を取り巻く話題となりスイッチが入りました。「あくまで個人的な意見」という前提ですが、芸術家をめざす人にもためになるお話かと思いました。

—-いつから画家を目指されたのですか?きっかけは何ですか?
私は1975年にウラジオストクで生まれました。両親はソビエト時代の科学者です。特に両親の影響はないと
思いますが、気がついた頃には絵を描くのが好きになっていました。16歳で絵画学校に入学し4年間、その後極東芸術アカデミーで6年間勉強し、自然とプロの道へ入っていきました。
—-プロの画家になるには何が必要でしょうか?
1つ目は、知識、教育です。どんなに天賦の才能があっても、知識がないと画家としてはやっていけません。
私のいう知識というのは、①材料、具材、技法②絵画の歴史のことです。絵の具の効果、色彩の法則などを
知ることで、最も効果的に表現できます。絶対にこれらの知識はプロ画家として必要です。2つ目は経験を積むということです。自分で描いて自分で見ているだけでは趣味の域を出ません。プロになるには、展示会を何度も開き、観衆に見てもらう必要があります。そういう展示会向けに活動する、そして評価をもらうというのを続けることがプロの画家に必要です。そしてそこに3つ目である、願望(エネルギー)を加えていきます。願望=エネルギーであるのですが、それは生活、人生の中から生まれてきます。生活、人生がとても重要です。
人生、生活から描きたいもの、願望が生まれ、それを上手く表現するために「知識」「経験」を使うわけです。
これら全てがプロ画家には求められますね。

—-芸術家を育成する先生という立場と、芸術家という立場は両立するものですか?
私は先生という立場と芸術家という立場は使い分けています。先生に求められるのは学生や子供たちへの
配慮、気遣い、励まし等です。これらの資質は芸術家に求められるものとは異なりますね。どちらが良いということではありません。
—-プロの画家とアマチュアの違いはなんでしょうか?
プロの画家は先に述べたように、知識と経験そして描きたいもの(願望、エネルギー)が備わっています。
これら一個が描けてもプロの画家とはいえないと思います。そして敢えて付け足せば、オリジナリティーでしょうか。いくら腕のよい画家でもコピーをしているのはプロ画家とは言えません。
—-子供の絵が評価されることがありますが、子供の絵も芸術なのでしょうか?
結論からいえば、子供の絵は芸術ではありません。確かに、子供の絵には素晴らしいものが沢山あります。大人にない純粋な心で、「描きたい」という内なる欲求をダイレクトに表現していて、それがすばらしい絵になったりします。私も子供の絵を見たり、飾るのが大好きです。しかしそれは芸術ではありません。芸術は「経験」が反映されていなければいけなく、また意図的でなければいけないからです。ただ欲求のままに描くのではなく、
何かそこに自分なりの意図を加える必要があります。

—-ナタリヤさんの作品には共通したテーマがあるのでしょうか?何を表現したいのでしょうか?
色の効果、質感などを通して、「自分の感じるもの」「美」を表現するということでしょうか。「自分で感じるもの」の中には、かならずしも美や善ではありませんが、傾向としては美を表現していると思います。色の効果というのをもう少し具体的に言うと、コントラストや色彩ルールです。質感というのは、紙、キャンバスの質感、絵の具の塗り方、盛り方ですね。展示会で生で見てもらうとよく感じてもらえると思います。
—-ナタリヤさんにインスピレーションのようなものはあるのでしょうか?
生活、自分を取り巻く環境は常に変化しています。それを常に新しい目で見ます。するとその中から描きたいものが出てくるのです。生活、環境そのものがインスピレーションの源泉です。


プロの画家としてもアジア、ヨーロッパで評価され、絵画部でも芸術家をプロとして育成することに力を注ぐ、
大きなエネルギーに触れました。夫で画家のイゴーリさんと共にウラジオの絵画界を盛り上げる女性でした。
ロシア人の子供向けの芸術教室や自然体験などの教育サービスで人気を博す「ZARIYA」。ウラジオストクで既に15年運営され、ここ数年は子供向けのみならず、大人向けに、更に海外からの旅行者向けにサービスを提供している。日本人の旅行者にも料理教室や伝統工芸教室などを開き好評。このZARIYAの創業者であり、社長のヴィクトル・パフローヴィチさん(Виктор Павлович)にお話伺いました。

—-お生まれはウラジオストクですか?
1960年にオレンブルク州の生まれです。1975年、15歳の時にウラジオストクに来ました。今56歳なので
既に40年以上はウラジオストクにいますね。
—-15年前に現在の教育関連事業を始めたと伺いましたが、それ迄の御仕事は何ですか?
ソビエト時代はずっと海で仕事していました。ロシアで俗に言われる「海男」です。海上輸送の関係を担当していました。その仕事ではアメリカからヨーローッパ、アジアなど数十カ国は訪問しましたよ。ソビエトが崩壊して、1990年から2000年くらいまでは色々なビジネスをしていました。中古車ビジネスもしましたし、韓国や日本の雑貨を輸入したりとしました。まずまずうまくいってました。

—-なぜビジネスが上手くいっていたのに、現在のような事業を始めたのですか?
別に宗教とかではないけど、なんとなくこういう社会的事業を始めねばと思ったんですよ。思ったというよりは感じたという方が正しいですね。現在の事業もビジネスですが、社会的、教育的側面で貢献するようなビジネスをしなさいという啓示みたいのがあったんですよ。

—-今非常にうまくいっているようですが、職員さんは何人ですか?
2012年のAPECがあった年に、我々のような事業に対する法律が改正され、それでだいぶ運営に軌道に乗りました。職員は25人位です。女性が3分の2です。
—-事業をする際に心がけていることはありますか?
子供も大人も皆、何かしらの能力を秘めています。それが工芸だったり、歌だったり楽器だったりして、その本人が持っている芸術方面の力を引き出し、本人に気づかせるのが我々の仕事です。そしてそういう能力が出て来ると人生も良い方向に進んでいきます。人生を豊かにするお手伝いです。
—-今後の計画を教えていただけますか?
お陰様で事業が急成長しており、今もウラジオストク市内の各地域に支店のような形でセンターを増やしています。来年は少なくとも3箇所がオープン予定です。それと旅行者向けの体験教室、交流事業も大きく展開していきます。

いつ行ってもにこやかに迎えてくれるヴィクトルさん。そんなヴィクトルさんを慕う従業員達。パワフルで
元気のよい女性達がヴィクトルさんの事業を支え、今後も発展していくのは間違いなさそうです。
88年目を迎えるウラジオ市民に愛される伝統的コンサートホール、フィラルモニア。近年は国際JAZZフェスタ等、世界中からアーチストを呼んだ公演で人気を博している。この伝統と現代音楽が交わるコンサートホールを陰でささえるマルガリータ・シュミリーナ(Маргарита Шумилина)さんにお話を聞いてみました。

—-お生まれはウラジオストクですか?
いいえ、生まれはナホトカで建築デザインの学校に入学する際にウラジオストクに来ました。それ以来、ずっとウラジオストクです。
—-マルガリータさんはどんな形で業務に携わっていらっしゃいますか?
私の専門はデザインと芸術です。コンサートは音楽だけでなく、それを彩るステージやホールのデザイン、
色彩なども考える必要があります。そこを考えるのが主な私の仕事です。音楽に色彩、デザインが融合した時、
さらに素晴らしい演奏になるのですよ。

—-コンサートは土日が多くて、なかなか休みが取れなさそうで大変ですね?
そうですね。休みは平日が多いです。でも私はこの仕事が好きなのでなんてこないですよ。
ここで働いて約7年になりますが、ずっとこんな感じです。
—-7年の間、辞めたり他の仕事をしたいなぁと思ったことはないですか?
実は1度だけあります。色々あって3ヶ月だけお休みをいただきました。でも私の居場所はやはりこのフィラルモニアコンサートホールだと再認識して戻ってきました。やはり私はここがあっています。
—-マルガリータさんの御仕事の魅力はなんですか?
もちろんデザインが出来るというのも喜びですが、それより何より多くの人にお会い出来るのが喜びです。
世界中から色んな演奏家が来られていろいろお話聞けるのはいいですね。それと聴衆のウラジオストク市民も
素敵な人が沢山いらっしゃいます。そんな聴衆とお話を交わすのも喜びです。

—-マルガリータさんご本人は音楽されますか?好きなジャンルは何ですか?
私自身は歌ったり、ダンスをする程度で楽器はできないんですよ。好きなジャンルはクラシックとJAZZです。

いつも笑顔で演奏者や聴衆を迎えてくれるマルガリータさん。空港まで演奏家を迎えにいったり、演者のために
ホテルを手配したりという裏方でも活躍。88年続き更に発展し続けるコンサートホールを今日も他の職員達と一緒に支えるマルガリータさんでした。
店名はそのまま「コーヒーと紅茶の店」。スーパーに置いていないものや、デザインの可愛らしいものがたまに見つかる。昔ながらの商店。
日本語名:マガジン チャイ&コーフェ
ロシア語名:Магазин Чай и Кофе







ウラジオストクで、快適さ、立地等で人気No1のホステル。美術品コレクターで世界中を旅した主人の感性で旅人のために作った宿。受付女性も親切。カンタンな英語さえあれば問題なし。館内でタバコ、アルコールは厳禁なのでご注意。
日本語名:ギャラリー&モア
英語名:Garally&More






オシャレな地元ウラジオ女性に人気の香水サロン。香水専門店で、品揃え、店員さんの知識も群を抜く。フランス製の香水がメインだが、ロシア人によって調合された香水もあり人気。
日本語名:ピィエルビーパルフューメルニー
ロシア語名:Первый парфюмерный














本物のロシア文化とお土産に触れられお店。完全Made in Russiaの商品が並ぶ。ウラジオストクでは随一の精巧な土産が手に入る。マトリョーシカ関連のグッズ、ロシア柄の布製品、クロスも充実している。
日本語名:ルスカヤゴールニッツァ
ロシア語名:Русская Горница


























熱帯系の蝶に触れ、遊ぶことの出来る場所。蝶の研究歴30年以上の店主が2年前にオープンした施設。ウラジオの子供たちに人気のスポット。旅行者向けには、沿海州だけに生息する昆虫を見るツアーも実施している。
日本語名:蝶の家”歓喜”
ロシア語名:Дом бабочка “Восторг”












