作曲家 久行敏彦さんの「ウラジオ珍道中」(最後にラジオ音源あり)

ウラジオストク珍道中

~我が愛すべきアンビリーバボーかつサプライズかつスペシャルサンクスな出来事~

☆彡vol.1

国際線の機内食。キャビンアテンダントが「chicken or fish?」と訊く。

皆さんはこれを読んでどのような状況を思い描くだろうか。

とんどの人は、すでに食前酒と軽いスナックが配られ、場合によっては前菜も食べ終わり、中にはワインの小瓶2、3本空けてしまっている呑み助もいることだろう。あとはメイン料理を肉料理にするか魚料理にするか、を問われている状況を思い浮かべるに違いない。

ところがアエロフロート成田→ウラジオストク線では全く違う展開が待っていた。小生は「chicken or fish?」に対し、「chicken please」と返答したのだが、数秒後、三角形のサンドウィッチがポンと渡された。成田⇔ウラジオ線で「chicken or fish?」とは「鶏のサンドウィッチとサーモンのサンドウィッチどちらを召し上がりますか?」なのだ。曲がりなりにもヨーロッパ航路。これまで経験したヨーロッパ航路はいずれもフルコース配膳であったので今回のサンドウィッチはかなりびっくり。よくよく考えればフライト時間は約2時間、ウラジオは沖縄より近い身近な都市なのだ。飛行時間3時間の成田→那覇線では何も食べ物が出ないことを思うと、これは素敵なサービス。フルコースの配膳など時間的に無理。ウラジオに着く前にかなりなサプライズ。

    成田ーウラジオ線での伝説のサンドイッチ

☆彡vol.2

オーケストラの団員は飛行機移動の際、楽器は必ず機内に持ちこむ。コントラバスやハープなど、大きすぎて飛行機の扉を通れないものならば貨物室に預けざるを得ないが、持ち込めるサイズのものは必ず持ち込む。チェロ奏者などは自身が座る席の隣にもう一席を確保し、そこに愛器を「座らせる」。その席のために通常料金の半額支払う。音楽家にとって楽器は「体の一部」なのだ。

今回のツアーでも自分の楽器持参の奏者が二人いた。ヴァイオリンとホルン。これらは座席上の物入れに余裕で入るサイズなのでわりと楽だ。だがいったん飛行機を出ると一筋縄でいかないこともある。入国手続きも無事済ませ、あとは税関をパスすればロシア入国となるのだが、ヴァイオリニスト所持の楽器がチェックの対象となってしまった。どうやら持ち込むときに、とても高価なものであることをきちんと申告しておかないと、出国の時に「なんでこんな高価なものをロシアから持ち出すのだ」となって、没収されてしまうこともあるとか。ストラディヴァリウス等の名器は3億の値が付くこともあるのはご存じの方も多いと思う。今回の楽器はそこまで高価なものではないだろうが、そんなわけで、楽器本体や鑑定書の写真を撮ったりして30分は足止めを食らったか。しかし一方で税関職員はホルンには全く目もくれなかった。びっくりするほどスルーだった。

旅行ガイド本によると、ロシアでは出国する際、カニ缶やキャビアは持ち出す量が250gまでしか許されていないそうだ。小生も帰国の際、空港で100gのキャビア缶2個買ったが10,000ルーブル、日本円で約20,000円。ということは25,000円分以上のキャビアは申告しないと持ち出せないことになる。ホルンは中学生が吹奏楽の部活で使うものでも最低20数万、プロが使う楽器ならば100万円では買えないだろう。税関職員にスルーされ続けたホルン奏者が、否、その楽器が少し可哀そうな気がした。ちょっとしんみりするアンビリーバボー。

 

☆彡vol.3

ウラジオストクに着いた翌日、我々は中心街にあるフィルハーモニーのホールにいた。ホールの中に足を踏み入れた途端、19~20歳の頃の郷愁を呼び覚ますオーラに圧倒されてしまった。

皆さんは「日比谷公会堂」をご存じだろうか。おそらく平成生まれの方は現役のコンサートホールとして活用されていた日比谷公会堂をご存じないだろう。昭和初期から平成の初めまで、わが国の最高の権威ある「日本音楽コンクール」の本選会場として我々の憧れの音楽会場であった。学生時代の我々は毎年のようにそのコンクールの本選会に詰めかけ、本選会で聴衆に挨拶している出場者と将来の自分を重ね合わせて眺めていたものだ。

日比谷公会堂がらみの日ロ・日ソ交流の歴史を一つだけ紹介すると、バス歌手のシャリアピンが1936年に来日し、日比谷公会堂でコンサートを行い、宿泊した帝国ホテルのシェフに作らせたステーキが今でも「シャリアピンステーキ」としてメニューに残っている。小学生時代、音楽の時間にシャリアピンが歌うムソルグスキーの「蚤の歌」のレコード(CDではない!)をかけてくれ、とみんなで先生に何度もせがんだことを昨日のように思い出す。シャリアピンのユーモアあふれる歌唱がクラス全員のお気に入りだった。

その日比谷公会堂と同じ香りがウラジオのフィルハーモニーホールにはあるのだ。ウラジオが1907年、日比谷が1929年、どちらも戦前の竣工だ。リハーサルの時、2階のボックス席に座って我々の仲間のソプラノ歌手を見たのだが、目と目が合って思わず笑顔で手を振ってしまった。リハ中にも関わらず、彼女も笑顔で手を振り返してくれた。これは現在の日本のどのホールでも、ウラジオにあるマリンスキー劇場の舞台に一番近いボックス席からも体験できない稀有なことだ。日比谷にはボックス席はないので舞台上の演者との距離はウラジオのほうが勝っているかもしれない。もし同じ演目を同じ指揮者、オケで聴くとしたらフィルハーモニーとマリンスキー劇場のどちらで聴きたい?と問われれば間違いなくフィルハーモニーと答える。素敵なホールだ。嬉しいサプライズ。残念ながら日比谷はコンサートホールとしては現役引退してしまったがウラジオのホールはずっと現役でいてほしい。

 

演者と聴衆の距離感が感動モノ。

 

 

☆彡vol.4

クラシックのコンサートでは一人で行ういわゆるリサイタルであってもオーケストラのコンサートであっても、基本的に曲間のアナウンスはない。「トークと演奏」といった形で演奏家が何かしゃべりながら演奏もする、という形はあるが、わりと少数派だ。オーケストラのプログラムでは前半に序曲または組曲等の小品をやり、次いで協奏曲、休憩をはさんで後半は交響曲、というのが一般的な流れである。聴衆は1曲目の小品で指揮者やオケの力量を把握し、曲が終わると完全に会場の空気はその指揮者とオケが支配し、次の協奏曲のソリストを迎え入れる体制が整う。協奏曲で聴衆はソリストの名人芸を堪能し、休憩。ここまでで会場内に流れるアナウンスは開演前の「演奏の妨げとなるので時計のアラームや携帯電話はオフにしてください」と「演奏中の出入り・撮影・録音は固くお断りします」だけ。いわゆるMCが曲や演奏者の紹介をするようなことはない。聴き手の耳を演奏にだけ集中させるためだ。曲間にMCが入ると1曲目で演奏に集中した耳を休めることができない。また、先ほど書いた「1曲目で作り上げた空気」を壊してしまうことになりがちだ。

ウラジオでのオーケストラのコンサートでは司会の女性が出てきて、まず1曲目の曲紹介、演奏者紹介から始まった。あ、これがウラジオの流儀か、と受け止めた。1曲目の演奏が10分ほどで終了した。会場の空気も1曲目の余韻が漂い、2曲目の開始を待つばかりとなるはずなのが、先ほどの司会女史が登場。何やら喋り始めた。小生はロシア語が全く分からないのでお坊さんの読経を聞くような気持ちで話が終わるのを待った。ところが1分過ぎ、2分過ぎても話は終わらない。何かメモを見ながら話すわけでもなく、尽きぬ泉のごとく、といった風情でとうとうと喋っている。かなり頭が良い方なのだろう。5分を過ぎても終わらない。これにはびっくり。この頃には「早く話が終わらんかなー」という気持ちは雲散霧消し、彼女の喋りそのものが演目の一つのように思えてきた。あとからロシア語が分かる人に聞いたら次の演目の作曲者、プロコフィエフについて詳細なお話があったそうだ。会場のお客さんもきちんと聞いていたし、司会のお話も興味深いものであったのだろう。休憩の後のプログラムは司会女史とともに進行する流れに全く違和感が無くなっている自分に気づいてちょっと可笑しかった。 

ちなみに開演前の「演奏中の出入り・撮影・録音お断り」「携帯電話の電源をお切りください」とのアナウンスは無かったようで、ステージ上の熱演に負けないくらい、客席も賑やかなものとなっていた。

                    5-6分ひたすら話し続ける女史。

 

 

☆彡vol.5

 今回のツアー、小生は日本側からの作曲家の一人として参加した。演目はヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、ピアノの4人で奏でる室内楽。モーツァルト、シューマン、ブラームスなど、古今の大作曲家が名作を残しているジャンルである。2014年に日本で初演したもので、今回のウラジオが2回目の演奏となる。弾いてくださるのはヴァイオリンだけ日本人の安田紀生子さん、他の3人はロシア人という編成。練習の時、言葉はどうするのか、と心配していたのだが、今回のツアーでアテンドをしてくださった宮本さんが通訳して下さるとのことで安心していた。初練習は極東藝術大学の練習室で。お互い和やかに挨拶を交わし練習が始まったのだが、ロシア人奏者の皆さんの練習の進め方、演奏の在り方について、言葉の問題以前の、日本人と大きな隔たりがあることを思い知らされる。譬えるならば、料理するとき、調味料の分量について、我々日本人は「塩少々、コショー少々」という表記で暗黙の理解をするが、彼らは「少々とは何グラム?」というこだわりを見せる。数値で示さないと安心できないのだ。これはどちらが優秀、ということではなく、流れている血の違いだ、と思い知らされた。日本では練習時間のほとんど、音が鳴っているが、彼らは与えられた時間の半分くらいは議論に費やす。日本人の立場でコメントするならば決して効率の良い練習の進め方ではない。しかし彼らにしてみれば、今まで出会ったことのない曲想で、どう対処してよいのか、困惑していたのだろう。もしかしたら議論している中で曲の批評や作曲家の姿勢(悪口?)についてもコメントがあったのかもしれない。しかし、宮本さんは必要最低限の通訳しかしない。これは憶測だが、ありのまま通訳したらとんでもないことになる、と危惧したうえでの気遣いなのだろう、と思う瞬間が一度や二度ではなかった。

このような状態で本番を迎えるまで、当初予定されていなかった臨時練習を何度か行い、アルチョーム市のホールでの本番を迎えた。本番前の楽屋で、彼らの一人が言うには「この曲は感覚が大事で、本当ならば2か月くらい何度も何度も練習して体で覚えないとよい演奏ができない曲だと思う」とのこと。小生の曲に対して本気で対峙してくれていたのだ、作曲者の意図を理解してくれたのだと思い、今までに味わったことのない感動を覚えた。本当に嬉しかった。スペシャルサンクスな出来事。

                    ロシア人達と本番に向け練習中。

 

 

     いつも険しい顔のロシア人ピアニストと共に。これも良き思い出。

 

 

☆彡vol.6

ウラジオの空港は実はウラジオ市内から60キロほど離れたアルチョーム市にある。東京と成田が70キロの距離だから似たような感じ、わりと田舎町だ。その中にアルチョーム市立の音楽学校があり、そこのホールでコンサートを行うことになっていた。我々がそこに到着し、ホールに一歩足を踏み入れた途端、舞台上に鎮座ましましている白い可愛いピアノに釘付けになってしまった。なんと素敵な歓待!

                    出た!まさかの白いピアノ!

皆さん舞台に上がって写メを撮っている中で、我々の仲間のピアニスト二人だけが深刻な表情をしている。「え・・・? 僕ら・・・ このピアノ・・・ 弾くの?」

鍵盤を叩くとちゃんと音がする。我々を歓待するためのオブジェではないらしい。本番用のピアノのようだ。人間、本当にびっくりすると全く言葉も発することなく、放心状態になるのだ、と二人のピアニスト氏から教わった。

おそらくこのピアノ、この学校に通う子供たちにとって特別な日にしか触ることのできない、とっておきの楽器なのだろう。まだ本番が始まってもいないのにそのピアノに照明が当てられ、妖艶なオーラを放っていた。この学校がこのピアノをとても愛でていることは容易に理解できた。

とはいえ、そのピアノを一流のプロが本番で喜んで弾くか、と言ったらそれは別の話。二人のピアニスト氏、どうするのだろうと様子をうかがっていたが、なんとその純白の楽器でリハーサルを始めたではないか。ほんの数分でこのピアノで本番をやる覚悟を決めたようだ。しかも、ちゃんとプロの洗練された音がしている。弘法筆を選ばず、とはこのことか。お二人のプロ意識の高さに恐れ入った。もちろん本番もバッチリの演奏だった。文句なしのサプライズ。

 

                     いざ本番!ピアノはやはり白い。

 

 

      安堵安堵でにこやかに皆で写真撮影。でもピアノのロシア人に笑顔なし(^^♪

 

☆彡vol.7

 帰国の前日、我々は極東藝術大学のホールで本番を迎えた。大きなトラブルやサプライズ、無く、つつがなく本番が終わった。休憩時間にこんなことがあった。前半の最後は小生の曲だったのだが、休憩時間にその曲が聴こえて来たではないか。お客さんの一人がスマホで録音したものだろう。本番中の録音・録画行為は昨日も一昨日もたくさん目撃したが、まさか自分の曲を録音されるだけでなく、それを目の前で再生されるとは。ご本人は作曲者がそばにいるなどとは思わないだろう。アンビリーバボー。でも、小生の曲を演奏後すぐに聴き返したいと思ってくれたのだ、と思うとそのお客さんがとても愛おしく思えてきた。日本では絶対できないレアものの貴重な体験!

 

 

☆彡vol.8

最後に我が娘のお話。極東藝大でのコンサートの後、我々は日本総領事公邸に招待された。我々のメンバー、領事館のメンバー、極東藝大の先生方、総勢20数名での素敵なひととき。最初に総領事のご挨拶があった。皆さん輪になった状態で総領事のお話が始まる。総領事の右に我々家族が並んだのだが、挨拶が始まった直後、下の娘が鼻血を出してしまった。なんでこのタイミングで、と妻は笑いをこらえながら止血の対処をする。総領事はご挨拶のために一歩前に進んでいらしたので、流血騒ぎは死角になって気付いておられない。一方で前述のように皆さん輪になっているから、総領事以外のその場にいらしたほぼ全員が鼻血騒ぎを見ながら総領事のご挨拶を拝聴する、という事態になってしまったが、この状態で鼻血には目もくれず、総領事のお話にだけに集中する、なんてことができる人はいないだろう。総領事には本当に申し訳ないことをした。懺悔のアンビリーバボー。

                     領事館公邸でのミニコンサート

 

                    娘の鼻血も止まり、日露仲良く記念撮影。

そんなこんなであっという間の一週間、いろいろなことがあった。わたくしは1967年生まれ、20代半ばまではロシアではなくソ連で、シベリア抑留とかKGB、スパイ、ホテルの部屋には盗聴器が仕掛けられて・・・など、ネガティブな印象の多い国であったが、今回の訪ロで完全にその先入観は払拭された。宮本さんはじめとする現地の日本人の方、極東藝大の方々、そしてコンサートに足を運んでくださったロシア人の音楽愛好家の方々、そしてウラジオのお店や料理のおかげであると思う。作品発表という口実が無くても、近いうちにまたウラジオストクにお邪魔することになるだろう。

 

ネットラジオ『OTTAVA』で更に深堀りされました(2:32〜9:12 がウラジオ部分)https://drive.google.com/file/d/1oz2sUboILjS9w5uCFEwxT_j9etPZkCzE/view  

 

 

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