美術を美術作品としてではなく、日用品へ応用する応用美術。その応用美術の分野でウラジオストクらしさを体現し、ロシアを代表する応用美術作家として名高いエフゲニー・ラポさん(Евгений Лапо)。彼の作品や作製工程には、様々な点で日本の影響みられるという。今回はそんなエフゲニー・ラポさんの作業場に伺い、生い立ち、日本とのつながり、作品作りで大切にしていることなどを聞いてみました。
–エフゲニーさんはウラジオストク生まれでないと伺いましたが、どちらで生まれて、ウラジオストクにたどり着いたかを教えて頂けますか?
1967年にクリミア半島のケルチで生まれました。ケルチは黒海に面していて、黒海を渡っていくと、トルコになります。小さい頃は、この海の向こうはトルコかと漠然と思っていました。5歳の時に家庭の事情で、クラスノヤルスクというロシア第三位のシベリアの都市に移りました。5歳から29歳まではクラスノヤルスクです。クラスノヤルスクでは、5年生から柔道を習っていて、20歳くらいまで続けていました。柔道の先生は日本の講道館にも出場したことのある方で、私にとってはスターでした。その先生の元で柔道を習えたのは幸運でした。当時はソ連時代で、柔道は国によって許可されていたのですが、こっそりと空手をはじめとしたその他の武術も習っていました。大学は、クラスノヤルスク国立芸術大学の建築科に入学しました。小さい頃から絵を描くのが大好きで、絵描きに憧れていたのですが、親が絵描きでは食べていけないというので、仕事の見込みもある建築を選んだのです。建築学科を卒業しました。建築学科を卒業し、建築の仕事も始め、クラスノヤルスクの銀行や百貨店などの建築設計に関わりました。当時はソ連が崩壊した直後で、社会は混乱し、皆が自分の利益を確保するのに一杯一杯の時期でした。私は自分で理想的な建築設計をするものの、建てる段階で、皆が自分の利益のために材料を減らしたり、適当に作り直したりと、最終的に出来上がるものは、私の設計するものとはかけ離れていました。そして、「私は他の人と関わらず、自分だけの裁量で完結する仕事をしよう」と強く感じたのです。そんな建築師としての仕事に嫌気がさしている時に、周囲の影響もあり、陶芸や焼き物の世界に目が向かうようになりました。陶芸、焼き物であれば、私個人の裁量で作品が作りあげられるぞと思い、同大学の陶芸家に入学することになりました。1991年から1997年まで通いました。陶芸科にいたころは、コンクールにも参加していたのですが、そこでウラジオストクの参加者とも知り合いになるようになり、彼らの招待で1996年に初めてウラジオストクに行くことになりました。
学生時代の作品
–1996年にウラジオストクに初めて来たときはどんなことをされたのですか?
初めてのウラジオストクはほぼ若者の旅行といった体です。当地の芸術家たちと交流した以外は、海で泳いだり、山に入りテントを張って寝たりと自然を堪能しました。

犬を抱えるのが若き日のエフゲニーさん
–どのような経緯で、ウラジオストクに移り住むことになったのですか?
それから通算で4回ウラジオストクに来たのですが、当時ウラジオストクにあった陶器工場の関係者に仕事をしないかと誘われ、西のモスクワ側よりも東に子供の頃から引かれていた私はウラジオストクに移住することに決めたのです。小さい頃見ていた黒海の向こうは、トルコしかないけど、このウラジオストクの海の向こうには、日本や朝鮮半島、アジア諸国があると思うとワクワクした気分になったものです。

–その後から現在までの経緯を教えていただけますか?
陶器工場は1年半でつぶれ、次の工場も数年でつぶれてしまったので、職人として働いたのは数年でした。その後2002年からは教職につきます。2002年から2007年はウラジオストク芸術専門学校の陶芸科、2006年からは国立極東技術大学の芸術関連素材科を担当することになり、大学が合併し、極東連邦大学になり今に至ります。同時に5年前から極東芸術大学でも陶芸部門を担当しています。
–素晴らしい作業場をお持ちですが、これは購入されたのですが?
これはウラジオストク芸術協会より一定の功績が認められ、2020年に譲り受けたものです。私は2011年から協会に参加していて、作業場が頂ければと思っていたのですが、話としてくるのはいつも、2階以上の高層階ばかりで、1階はまったく話がありませんでした。私の作業は土をこねたり、焼いたりもするものですから、どうしても1階である必要があり、約10年も待つことになりました。しかも譲り受けた際は、荒廃していて全く使える状態でなかったので、今の状態にするまで1年も作業とお金をかけました。芸術家の中には、環境にこだわらない人もいますが、私は素晴らしい作品は、素晴らしい作業環境から生まれると思っていますので、この環境づくりにはすごくこだわりました。

–天上にはサーフボードが取り付けられていますが、サーフィンもされるのですか?
サーフィンをはじめ、海遊びは私の人生の大事な一部です。一番、力を入れているのが、ヨットです。ウラジオストクで一番有名なセミフートというヨットクラブに長年参加していて、チームの一員として長年ヨット競技に参加しています。世界の大会にも参加して、そこの縁から、日本の津軽海峡横断ヨットレースにも4回参加しています。戦争の影響で、2023年を最後に参加できていなく残念です。青森では、陶器の製造販売店を訪れ、日本の陶器、陶器の伝統に触れられ、ヨット競技での交流とともに素晴らしい思い出として残っています。

–この作業所もエフゲニーさんの作品からも日本海のマリンテイストが溢れていますが、海についての思いをお聞かせいただけますか?
まずはウラジオストクの海の向こうには、日本をはじめとしたアジアが広がっているというのが何とも私をワクワクさせます。そして過酷なヨット競技を通じて、そのリアルな感覚を強く感じることができます。そしてそのアジアの岸辺にヨットでたどりつくときは何とも言えない快感に襲われます。また、水との触れ合いで私はさまざまなことを身体を通じて、学ばせてもらえます。老子が言うような、流れに逆らわず、流れに乗って自然に行く、そんな水の在り方を私も自然と身につけられている気がします。



釜山の海岸で見た男の子が子供時代のエフゲニーさんを思い出させ作品にした
–アジアへの渇望が伺えますが、エフゲニーさんの作品にもアジアの影響は大きいのでしょうか?
私が敬愛する画家は、3人いて、1人はロシアの画家ニコライ・フェ―シン、もう1人は中国の斎白石、そして最後が日本の葛飾北斎です。3人のうち、2人はアジアの大家です。葛飾北斎の波、そして富岳三十六景、これらは本当にすばらしく、私の作品にも取り込まれています。2023年に作ったシリーズものの作品「沿海州の釣り」まさには富岳三十六景に着想を得たものですよ。
ロシア人でありながらタタール人の血をひいたニコライ・フェ―シンの作品
昆虫や植物をやわらかいタッチで描いた斎白石

日本風の花瓶も焼くエフゲニーさん

沿海州の釣り風景を30枚の陶器作品にした
–日本の芸術全般、陶芸に関してはどう感じていらっしゃいますか?
3つの側面からお話できると思います。1つは、作品自体についてです。水の流れや、四季の変化のように、自然な移り変わり、自然な動きをとても大切にしていて、それがいつも私の心を揺さぶります。書道における線の使い方、墨の滲みを芸術までに高めるセンス、それは卓越していると思います。作品全体でも春夏秋冬、生物、昆虫、木々を扱ったものが日本芸術の中心にある、本当にすばらしいです。2つ目は、作業への向かい方、姿勢、心持ちです。結果に固執せず、結果は神にゆだねる、そして作る過程に集中、万全をつくす。陶芸で器を焼いても、窯に入れるまでは集中し、あとは窯に宿る神の力に結果をゆだねる、そんなところにすごい魅力があります。私も自分の作品を作るときは、結果ではなく、アレックセイ・アルヒポフスキー等のロシアの美しいメロディーをかけることで、禅のようなトランス状態に入り、プロセスを楽しむようにしています。学生時代からの習慣で作業時はロシアの音楽をかけるのは必須になっています。日本の職人たちの作品づくりと共通する部分が私の制作過程にもあります。3つ目が子弟関係、技術継承の素晴らしさです。広島長崎での悲惨な戦争はあったものの、日本では概ね大きな戦争がなく、非常にうまく芸術技術の継承が行われています。子弟であったり親子の関係をつうじて、自分が受け継いだ技術を次の世代へ引き継ぐという意思と、それを実現するシステムが存在しています。世界一の継承システムが、多数存在できているというのが日本の伝統工芸の卓越したところです。そしてそれを支えているのが長い間戦争がない、つまり平和であるということです。ロシアでも中国でも世界大戦や内戦が頻繁に起こった歴史があるので、技術の継承がうまくできませんでした。それが今日のロシア芸術における技術、伝統の継承の大きな問題となっているわけです。日本の伝統工芸に触れるとき、いつも平和の大切さを考えさせられます。

平和と技術継承は切り離せないというエフゲニーさん
ロシアの弦楽器バラライカ奏者アレックセイ・アルヒポフスキー
–エフゲニーさんの今後の活動について教えてください
あまり目的や先の予定を立てないようにしています。自然の動き、流れにあわせてというのが私のスタンスです。そして、作品づくりの過程そのものを楽しみたい、そして楽しむからこそ良い作品ができると思っているので、私がプロセスを堪能して、作品が出来上がった後、展示会の予定を決めていく、そんな風にやっていきます。ヨット活動も、そろそろ体力的にもきつくなってきたので、競争ではなく、ゆったりと波に揺られながら海を満喫する、そんな風にやっていこうと思います。常に新しい作品、新しい境地を開くというは忘れません。自然がそうであるように、変化し進化はしていきます。日本とのことに関してですが、今、日露の往来が難しく残念に思っています。はやく収束して、日本の工房を尋ねたり日本の職人さんと意見交換したりできればと思っています。そして私の工房にも日本の芸術家や職人さんに来てもらい、技術を通じた交流ができればと心から願っています。
エフゲニーさんの紹介記事
https://kgii.ru/nauka/enciklopedia/89-vikipediya/2159-lapo-evgenij-gennadevich
https://vl-dorogoe.ru/chej-bereg-togo-i-ryba-keramika-evgeniya-lapo/
https://xn--80aphn.xn--p1ai/news/2026-05-07/zola-ogon-i-obschee-dykhanie

ウラジオのガイド(通訳)のお問合せ お気軽に♪