第二次大戦終戦まで極東ロシアには中国、朝鮮、日本を主としたアジア人がロシア人と混じって生活していました。そのアジア人の多くは出稼ぎが目的でしたが、中には軍事諜報活動に関わった人たちもいたと言われています。日本の文豪,二葉亭四迷も極東ロシアを訪れ諜報活動に関わったという小説もあったりします。第二次態勢中の極東ロシアにおける日本軍側の諜報活動員として嫌疑をかけられ当時のソ連で処刑された祖父を持つのが、ドミトリー・ニコラエヴィチ・エルフィモフさん(Дмиторий Николаевич Елфимов)。今回は、小さな手掛かりを手に、アジアのどこかにいるであろう祖父の親族を探すドミトリーさんにお話しを伺いました。
–ドミトリーさんはウラジオストクのお生まれでしょうか?
いいえ、生まれはシベリアのクラスノヤルスク州で1966年なのですが、徴兵で沿海州に来て、そのままウラジオストクに残り、今に至ります。徴兵後は医学部へすすみ、現在は日系医療機関の理学療法士として勤務しています。
–ドミートリーさんのお顔からはアジア人っぽさがうかがえますが、小さい頃から御自身にアジアの血を感じられていたのでしょうか?
シベリアのクラスノヤルスクで、しかもソ連時代であり、周囲の文化はソ連一色、中国の情報がかろうじてあるくらいで、自分では自分の血や出生について考えることはほとんどありませんでした。アジア人といえば中国人くらいしか当時の子供達の頭にはなく、幼少時代はドミトリーは中国人と言われたことはありましたね。もう1つのアジアとの関わりといえば、空手でしょうか。ソ連時代、法律で空手は禁止とされていたのですが、密かに習っていました。密かに教えてくれる空手の先生がいて、私を含めて4人ほどの子供たちが習っていました。特にアジアの血を意識したことはなかったですが、今振り返ってみると多少既に関わりと憧れがあったのかもしれませんね。
–いつ父型の御祖父が日本人諜報員だと知ったのですか?
父型の祖父が日本人であったという確証はなく、おそらく日本人であったと書面で知ったのは2年ほど前です。私に日本の血が入っているような、予言というか、ほのめかしというかそういうのが初めてあったのは5年前です。
–5年前の予言と2年前の書面について詳しくお聞かせいただけますか?
ロシアには日本の占い師のような、過去と未来を見れるという人がいて、5年前にウスリースクで出会いました。その人はロシア正教の女性で、私が彼女に部屋に入った途端「日本人、侍が来た」と言いました。あまり多くを語りはしなかったのですが、その時に急に私も自分の体に日本の血が流れていることを意識するようになりました。そして2年前なのですが、姉から衝撃的な書類を受け取りました。それはソ連国家保安委員会(Комитет государственной безопасности СССР)のアーカイブ文書で、祖父の死因についてのものでした。祖父は日本の為の諜報活動に従事したという嫌疑で当時のソ連によって1937年にハバロフスクの西側ビロビジャンという街で拘束、1938年ハバロフスクで銃殺されたと書かれていました。祖父は出稼ぎをしていた「コファ(КО-ФА)」という中国人であると自分を名乗ったようで、書類上は「コファ」という名前で統一されていました。ただ日本の為の諜報活動と嫌疑はなっていますし、祖父が残したサイン「十上」というのが私の知り合いや、歴史専門家の意見からしても、どうも日本のものだとあり、そこから私は、祖父が日本人であるという視点で祖父についての更なる情報、そして願わくば親族が見つからないかと始めたわけです。
中国国籍で日本のために働く反ソ連諜報員という嫌疑で逮捕された
拘留され「コーホー」と自称した御祖父
–ドミトリーさんのお父様からは祖父のお話を伺う機会はなかったのでしょうか?
私の家庭的な事情が複雑で、少し父と私の関係についてお話しますね。父は銃殺された祖父と祖母の間で生まれた1人子だったのですが、祖母もどうも殺されてしまったようで孤児として孤児院で育ちました。私の父と、母は私が幼少の頃に離婚し、私は母とクラスノダルスクにおり養父と一緒に育ち、父は父でウラジオストクで新しい家庭を築いて生活していました。1980年代半ば、私は徴兵でウラジオストクに来ることになり、その際に母から父のウラジオストク住所をもらいました。その住所を頼りに父と会い、少し話ましたが、父は自分の出自や祖父については何もしりませんでしたし、何も語りませんでした。父も新しい家庭がある手前、あまり私と会うこともできず、ほとんど連絡を取ることはなくなりました。祖父の血を引く父と私の関係は、こんな感じなので祖父や親族についての情報は父からは何も得ていません。
ドミトリーさんのお父さんは「コーホー」の子として孤児院で育った
–大きな手掛かりとなる「十上」という御祖父のサインについて、どういう考察が行われているのでしょうか?
「十上」については現在2つの考察があります。1つは職場の通訳者が調べてくれたもので、15世紀に日本、朝鮮、中国で使われた文官の姓として「十上」があったとのことです。通訳者もプロではありませんのであくまでネットなどで調べてくれた範囲での考察です。もう1つはウラジオストクの歴史家で漢字にも精通された方の説で、1938年当時「上」は中国で使用されておらず、日本の漢字であり、それゆえに祖父は日本人であったのではないかという考察です。まだまだ情報としては不十分ですが、今のところはこんな感じです。
御祖父が死の間際に残した「十上」のサイン
–ドミトリーさんご自身は御祖父の残されたサインについてどのようにお考えですか?
祖父は自分を「コファ(КО-ФА)」という中国人であると調書では供述したのですが、その祖父の調書上の供述と、「十上」というサインは全く一致していません。おそらく祖父は、いつの日かこの自分のサインが白日の下にさらされ、日本側にいる自分の親族、そして唯一の子であった私の父、そしてそれに続く私達子孫に自分の存在を伝えるために残していったのでしょう。最後まで、自分に課せられた任務を遂行し、自分の身分は一切明かさず、サインも祖父そのものと何も関係ないという推論もありえますが、私は死を前にした人間の心境としては、自分の血と足跡を残したかったのだろうと思っています。
–御祖父の件について、どのようなことを願われ、今後どのように進められていく予定でしょうか?
可能性や希望が少ないのは重々承知している一方、少しでも可能性があれば、少しずつでもいいので祖父の存在を明らかにしていきたいですし、日本にいるであろう祖父の親族を見つけらればと思っています。そして祖父型の本当の姓を明らかにしたいです。私の姓エルフィモフ(Елфимов)というのは、実は母型の姓なのですが、これは父型姓を受け継いでいくロシアの伝統からは外れるものです。母型姓を血統として受け継ぐイスラエルのような国もありますが、ロシアでは父型姓こそが血統であり、先祖と自分をつなぐものといえます。この先祖とのつながりである父型の姓をなんとか知りたいというのが個人的な憧れです。
戦争と国家という抗えない状況の中で人生を終えていった国籍も確かでないドミトリーさんの御祖父。そしてその血を受け継ぎ、アジアにおける先祖とのつながりを明らかにするという願いをかける現代に生きるドミトリーさん。そんなドミトリーさんは日本にロシア正教を広めた聖人ニコライに願をかけ、ニコライがロシアと日本を結んだように、ロシアのドミトリーさんと日本が血の上で繋がる日を待ち望んでいます。今はまだ小さな手掛かりしかありませんが、日本と思われる御祖父の出自や親族が明らかになることを願ってやみません。
ウラジオ発:極東ロシアで亡くなった祖父を血統を探す ドミトリー・ニコラエヴィチ・エルフィモフさん
極東ロシアで亡くなった祖父の血統を探す ドミトリー・ニコラエヴィチ・エルフィモフさん
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