ウラジオ発:老舗ピロシキ店 店主 エレナ・アナトリエヴナさん

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ウラジオストク駅そばで長年庶民に愛されるピロシキのお店「ピラジョーニッツァ」。お店の厨房で昔ながらの製法で作る味が人気。1つが大きくてお腹の足しになるため早朝深夜にはタクシー運転手の立寄ることが多い。今回は同店の店主エレナ・アナトリエヴナさん(Еленаё Анатольевна)に御自身の人生、ピロシキ屋を営むに至った経緯などをお伺いしました。
 
 

 
 
–お店は何年前にOPENされたのですか?
10年前になります。
 
 
                                   ウラジオストク駅徒歩3分にあるお店
 
 
–エレナさんのお生まれはウラジオストクでしょうか?
沿海州ではありますが、スビヤーギナ駅という田舎の街です。ハスの花で有名なハンカ湖の近くです。小中学校はスビヤーギナで過ごして、大学入学でウラジオストクに来ました。当時の国立極東大学の法学部です。今の極東連邦大学です。
 
 
–ピロシキ屋を始めるにいたった経緯を教えていただけますか?
ピロシキ屋を始める前は、バスの停留所前でキオスクのようなタバコ屋を営んでいました。ある時、1人のおじさんが私のタバコ屋に来て「私が持ってくるピロシキをお店に置いてくれないか?」と言うんです。それでとりあえず彼のピロシキをタバコなんかと一緒に売るようになりました。バスの停留所ではお腹すかせた人もいるので、そのピロシキが結構売れるんです。特に冬は紅茶なんかと一緒に買う人が多かったです。売れるは売れるのですが、味は私からするとイマイチで、そのまま率直に「味が美味しくできないのか?」と尋ねました。なぜ美味しくないか知りたかったので、彼にピロシキ製造現場を見せてもらいました。そうすると作業している人がロシア人でなく、皆ウズベキスタン人だったんです。彼らはピロシキを食べる習慣、伝統がないのでうまくできないのは当然でした。それからしばらくして、ある冬の日に私は氷で足を滑らせて、骨折してしまったのです。タバコ屋には長男のマトベイが立ってくれることになり、私は自宅療養です。ただ医者には活動は進められていたので、自宅の厨房でピロシキを作ってみることにしました。その私の作ったピロシキを長男がタバコ屋に運び売るという日々が始まったのです。美味しいと評判になり、よく売れるようになりました。
 
 
                             以前営んでいたタバコ屋からピロシキ売りが始まった
 
 
–エレナさんとピロシキの繋がりや想い出について教えていただけますか?
ピロシキは幼少期の母との思い出です。ソ連時代は多産を賞する社会で母も6人の多産母として国から表彰されていました。その6人の子供たちのために、いつもピロシキを作ってくれました。当時は小麦粉がただみたいな値段だったので、6人の子供を育てるにはピロシキはとてもいい食べ物でした。実際、私達兄弟はピロシキでお腹を満たしていました。また母は幼稚園の厨房で働いていて、350人の子供達の給食も作っていました。ピロシキも1日2回焼いていたと思いますが、母のピロシキは幼稚園でもとても人気がありました。そんな母の作る姿を見るのが好きで、たまに手伝ったりしながら、私も美味しいピロシキの作り方を覚えていきました。それが今のピロシキ屋につながっています。
 
 
                             ソ連時代の子供たちはピロシキでお腹を満たした
 
 
–エレナさんのピロシキは他のお店と何か違いがありますか?
ピロシキの具は、どこのお店でも大体同じで煮キャベツ、マッシュポテトなどになります。私のお店が支持されるのは、現代的な機械でなくて、昔ながらの手作りであるからと思います。ピロシキの生地は卵や小麦粉、塩などで作られるのですが、その成分が機械の金属でつぶされてしまいます。その点手作りですと、成分が保たれ、適度な生地に仕上がります。更に手作りでは愛情を込めることができ、これが大きく味を変えるのだと思っています。それにうちは材料をけちることをしないので常に良い材料を使うのがお客さんにも伝わっているのだと思います。たまに儲けが少なくて困ることもあるのですが、私の作ったピロシキでお客さんが喜んでくれるともうそれで満足という気持ちになります。
 
 
                            エレナさんの店では昔ながらの揚げピロシキを売る
 
 
                               手でこねることにより美味しさが保たれるという
 
 
–10年でピロシキを買うお客さんに変化はありましたか?
ピロシキは上の世代はよく買われたのですが、彼らは年金暮らしになってめっきり減りました。若い人はファーストフード、ハンバーガーやラップサンドなどのほうが好きなようで、最近の若者はピロシキをあまり食べなくなっています。ファーストフード1個分の値段で3つもピロシキが買えてお腹も一杯になるのに。最近の趨勢で仕方ないですね。食べないならまだしも、場合によってはピロシキをダサい食べ物として馬鹿にするような若者もいて、そんな時は悲しくなります。
 
 
–エレナさんの家族構成を教えていただけますか?
子供は3人で長男マトベイ33歳、次男アレクサンドル31歳、長女マリヤ22歳です。長男はウラジオストクで在住、次男は北京の海南航空で仕事しています。長女マリヤは小学校から日本語を勉強して大学でも日本語を専攻で通訳になりたかったのですが、今は銀行で働いています。うちの子は皆、お酒を飲まず、タバコを吸わず、ふらふらもせずとてもいい子に育ってくれています。1999年に主人が南米で原因不明の事故でなくなった際も長男が生まれたばかりの長女の面倒をよく見てくれて、幼稚園のお迎えなんかも買って出てくれました。
 
 
                        小さい時からエレナさんを助ける長男マトベイさんはしばしお店にも立つ
 
 
–亡くなられたご主人との想い出を教えていただけますか?
主人は私より8歳上でパイロットでした。同じ村の出身で、親同士が友達だったんです。なので幼少期からいいなづけみたいな間柄になっていました。私は小さい頃、活発でダンス踊ったりピアノ弾いたり、それで勉強も頑張っていましたから、彼や彼の両親が気に入ってくれたみたいです。私は8月に大学に入学し、1か月後の9月に正式に結婚しました。そして大学生をやりながら長男を生みました。今でこそ大学生で子供を産むのは少ないですが、多産を奨励するソ連時代は大学生で子供を産むというのは頻繁にある光景でした。長女が生まれて2年後の1999年、主人はパイロット業務で行っていた南米で原因不明の死を迎えました。私も現地へ行きましたが、原因は結局明かされませんでした。
 
 
–ご主人が亡くなられたときはエレナさんの人生で一番つらい時ですね?
私の人生はとてもいいものですが、主人が亡くなった時が最もつらい時期でした。2歳の長女も生まれたばかりでしたしね。あの時は、経済的なつらさというよりは、圧倒的に精神的なダメージが大きかったです。
 
 
–最後に、長女マリヤさんと日本や日本語のつながりを教えて頂けますか?
マリヤは小さい頃から日本語が好きで、日本語を重点的に教える小学校に行き、大学でも日本語を勉強していました。日本の家庭にホームステイに行ったり、日本からうちにホームステイで来たりと、そういった交流もしていました。こうき君、まなさん、この2人がうちに来て、マリヤは京都に2週間行きました。マリヤの部屋は小さき頃から日本風の壁紙が彩られ、本当に日本が好きなんです。日本の子はしっかりして、端正で、礼儀もよく、文化的で私達家族はみんな好きです。私達のピロシキを買いに日本人が来てくれるのは本当に嬉しく、誇らしいことなんです。
 
 
思いがけない雪道の骨折から現在の人気ピロシキ屋への道へとつながったエレナさんのピロシキ人生。お母さん譲りの昔ながらの手作り製法を守り、今日も店頭に立ち続けるエレナさん。ロシアの庶民飲食文化を守るお店の1つとして、なんとか長く続けていただきたいものです。

お店の紹介:http://urajio.com/item/1292



老舗ピロシキ店 店主 エレナさん

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