ウラジオ発:ウラジオジャズ文化の牽引者 スタ二スラフ・タシキノフさん

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クラシック、ロック、ブルースなどの多様な音楽文化が共存するウラジオストクで近年人気を増すのがジャズ。米国、キューバを始めとしたジャズの本場からジャズ歌手が集う毎年のジャズフェスタは切符がソールドアウト。そんなウラジオストクのジャズシーンを支えるのがウラジオ初のジャズバー「コントラバンダ(密輸者)」。この人気バーを運営するスタ二スラフ・タシキノフさん(Станислав Ташкинов)にお店を開くまでの経緯やソ連時代とロシア時代の音楽シーン等について伺いました。
 
 

 
 
スタにスラフさんは何年にお生まれですか?
ソ連時代の1973年に生まれました。
 
 
小さい頃から音楽が好きだったのですか?
音楽は好きで17歳からギターを始めて、その後はロックバンドもしていました。
 
 
どういう音楽が好きだったのですか?
ロックが中心で、アメリカの「Red Hot Chili Peppers」「Nirvana」「Metallica」なんかが好きでした。今でも基本的にはロック、パンク、ジャズが好きです。
 
 
                              少年時代はアメリカのロックグループで育った
 
 
ウラジオストク出身の世界的ロックバンド「ムーミートゥローリ」は同じ年代ですか?
ムーミートゥローリがウラジオストクで活躍したのは私がバンド活動していた時よりも5年くらい前です。バンドのリーダーであるイリヤ・ラグテンコさんは私より5歳年上です。彼らが活躍した時が、ウラジオストクのロックが第一の波を迎えたときで、私達の世代が第二の波といわれています。私達の世代のころはウラジオストクだけで50以上のロックバンドがいました。ちなみに今は150くらいになっています。
 
 
                        ウラジオ発の世界的グループとなった「ムーミートゥローリ」は5歳上
 
 
今のジャズバー「コントラバンダ」はいつ開かれたのですか?
2015年にグム裏でロック&パンクバーとしてお店をOPENしました。その後2017年に今の場所に場所を移しウラジオ初のジャズバーとして営業することになりました。
 
 
2015年までは音楽に関係する仕事をされていたのですか?
2013年~2015年はウラジオストク駅の近くでレコード、CD屋を営んでいました。そこも名前は「コントラバンダ」です。その前は音楽とは直接関わる仕事はしておらず、10年位は日本商品をロシアに運ぶような事業をしていました。
 
 
日本商品を運ぶというのは貿易のような事業ですか?
当時YAHOOがロシアにも上陸したのですが、そこに自分のサイト「JAPAN LOT.RU」を開設しました。大変うまくいき、日本の商品を必要とするロシア人は全て私のサイトを訪れ、そこから商品を注文しました。ロシア全土でです。2年後に「IN JAPAN」という競争相手ができるまでは独占状態でした。その事業に10年ほど従事していました。ただこの当時、私は、日本から税関手続きを通さずに船でロシアに運んでいて、いわゆる密輸、つまり違法行為です。私は売春、ドラッグ、拳銃などには一切かかわっていませんが、密輸は行っていました。これを私は公然と認めています。だからお店の名前は密輸者を意味する「コントラバンダ」なんです。
 
 
                               店名は密輸を意味する「コントラバンダ」
 
 
お店の由来はご自身が行っていた密輸から取られているのですね?
はいそうです。皆になんで「コントラバンダ」なんて挑発的な名前をつけたんだ?と聞かれますが、堂々と「私は本当の元密輸者だよ」と答えるんです。皆、私が堂々として認めるので笑ってますけどね。しかもその事業始める前は税務署の調査員を5年やっていたんです。税を取り調べる側から逃れる側へ全く逆の立場になってしまったんです。
 
 
日本からどういう商品を扱っていたのですか?
当初はオートバイ、車の部品が中心でした。その後、CDが出現して全く日本の家庭から追いやられたレコードプレーヤーを扱うようになりました。日本のレコードプレーヤーは性能よく私は1979年製のを今でも持っています。そんな日本のレコードプレーヤをロシアで需要が増え、日本から大量に運びました。そうすると自然にレコードへの要望も高くなり、最後にはレコードそのものも日本から運ぶようになったのです。
 
 
                          日本製レコードとレコードプレーヤーの多くがナホトカに入った
 
 
ウラジオストクでは日本からずっとレコードが入ってきているのですか?
アジアではシンガポール、台湾なんかでもレコードは多少家庭にありましたが、圧倒的にこのレコード文化が発展していたのは当時の日本でした。そのため、私が事業を始めるずっと前、つまりソ連時代からレコードとレコードプレーヤは人気商品として日本からナホトカ経由でロシアに入っていました。ソ連時代のウラジオストクは軍事閉鎖都市で船が入ることができなかったので、すべての船はナホトカに入っていました。当時は海上で仕事するロシア人男性が多かったのですが、そんな海の男達が、日本に立ち寄って、こっそり仕入れて、こっそりロシア側で売っていたのです。ソ連時代は商売禁止ですから、これも厳密にいえば違法行為です。
 
 
スタ二スラフさんも日本からのレコードで育たれたのですね?
はい。小さい頃は、カセットテープを学校に持っていくと、レコードからカセットテープに録音してくれました。そのカセットテープをよく家で聞いていました。
 
 
貿易事業されていたスタニスラフさんなぜジャズバーを経営するに至ったのですか?
バーを始める前は、レコード屋を運営していました。そこでは金曜と土曜の夜はお店を片付けて演奏会をやっていたんです。そしてそこで無料でお客さんにお酒をふるまっていたんです。それが大人気で金土と言わず、毎日生演奏して、お酒を飲ませてほしいと皆に請われたのです。ただ大人気であったものの、音楽と酒を飲むお客さんの騒音がひどくて近所から苦情を受けていました。そんな矢先、グム百貨店のオーナーが私のレコード屋に来て、「グム裏で大きなバーをやらないか?」と話があったんです。それでそのままレコード屋でやっていたのと同じような感じで、酒と音楽のバーを2015年に始めたのです。でも始めはロック、パンク、ディスコ演奏のバーでした。
 
 
                            グム裏にオープンした時はロック中心のバーだった
 
 
なぜロックやパンクからジャズに切り替えたのですか?
ロックやパンクを楽しみにくるお客さんは、お店の機器を壊したり、興奮して暴れたり、時に血が流れたりと、経営上で全くいい面がありませんでした。お客さんは来てくれるのだけど、営業はいまいちだったんです。そしてジャズをたまたまやったら、チケットは売れるは、お客さんは静かに聞いてくれるわでいいことが経営的にとてもよかったんです。そういう経緯があって、2017年にお店を移した際はジャズ1本でやっていこうとジャズバー「コントラバンダ」としました。
 
 
ジャズバーとしてのお店は順調そうですね?
おかげさまで順調にいっています。うち以外にももう1店ジャズバーがあるのですが、そちらは高級志向でゆったり座れる50席。うちは立ち見、立ち飲みばかりの150人収容で全く高級でないですけど、いつも一杯です。
 
 
                             演奏のある木金土はいつも立ち見客で満杯
 
 
                             音響機器の調整でいそがしいスタニスラフさん
 
 
お店で演奏されるジャズバンドはどれくらいあるのでしょうか?
開始した当初は3グループしかなかったのですが、ロックやパンクをやっていたグループもジャズを勉強してくれて、ジャズグループは13グループになっています。また日本、韓国など海外から演奏に来てくれる人もいます。
 
 
                                若くて有望なジャズバンドも育ってきた
 
 
ウラジオストクらしいジャズバンドはありますか?
スタンダードなジャズは世界共通で、基本的にウラジオストクらしいというものはほとんどありません。そんな中でも自分達のアレンジを加え、頭角を現しているバンドは出てきていますね。「Vladovski Electric Band 」「Crystal Jazz Band」はウラジオストクで毎年開催されるジャズフェスティバルにも招待されるほどの実力ですし、彼らのジャズは独自性があるので日本や韓国なんかにも連れていき演奏させたいくらいです。
 
 
                         世界中のジャズマンが集うウラジオ名物の国際ジャズフェスティバル
 
 
ウラジオストクにはジャズバー以外にも沢山の生演奏バーがありますね?
ウラジオが生んだ世界的バンドの運営する「Mumiytrollbar」、ブルースの聞ける「Lebowski Bar」、ハードロックの「Ozzy bar」、ポップ&ロックの「Cat&Clover」などが老舗になります。その他にもロックバーは沢山あります。
 
 
スタニスラフさんは村上春樹が大好きと聞いたのですが、それについて伺えますか?
私は村上春樹の大ファンで、私の人生に大きな影響を与えてくれています。10代の頃、ウラジオストクで手に入る日本の情報、本といえば村上春樹の本くらいでした。私は貪るように読みました。ご存じかもしれませんが、村上春樹の本には、バーの話が沢山出てくるんです。彼自体がバーで勤務していたのです。彼の本ではバーで起こる様々なトラブルも描写されていますが、私もバー経営者として本当によく気持ちがわかるんです。そして彼の本にはレコードも頻繁に出てきて、彼の本にあったレコードリストに沿って、私もレコードを集めたりしたんです。しかも、最近知ったのですが、彼はマラソンを走っているとかで、これも私の趣味と一緒でした。私もウラジオストク国際マラソンにも毎回参加するジョギング好きなんです。こうして振り返ってみると、村上春樹が送った人生を30年遅れて、彼の後を私が送っている、そんな感じがしてくるんです。村上春樹の本が好きという以上に、人生としての縁を感じています。
 
 
                                 村上春樹はロシアでも根強い人気
 
 
                     村上春樹の本にはバーやレコードの話が一杯で、スタニスラフさんに大きな影響を与えた
 
 
過去の密輸歴を店名「コントラバンダ」とし、公然と認める豪快で少しやんちゃな印象のスタニスラフさん。そんな彼はサービス精神が旺盛で、楽しいことが大好きなので、いつのまに沢山の人々が集まってきます。ミュージシャン、お客さんを吸いつけるマグネットのような存在です。そんな彼の魅力とそれに引き寄せられる人々によって、ウラジオストクのジャズ文化が広く根付いていくのがとても楽しみです。

お店の紹介:http://urajio.com/item/0173



ウラジオジャズ文化の牽引者 スタ二スラフ・タシキノフさん

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