ロシアで伝統的に受け継がれる薬草を煎じて販売し、ウラジオストクのみならずロシア全土でもファンのいるお店「トラブニック」。その2代目として、経験、知識、そして心意気を守り続けるのがアレクサンドル・レオニドーヴィチさん(Александр Леонидович)。今回はお店の歴史や初代であるお父様ニコライ・ドミトリーヴィッチさん(Николай Дмитриевич)のこと等について伺ってみました。
–アレクサンドルさんはどちらのご出身ですか?
私はシベリア中央部のクラスノヤルスクというところで1963年に生まれました。後に父の仕事の関係でウラジオストクに移ってきました。
–アレクサンドルさんは小さい頃から薬草の勉強をされていたのですか?私はソ連時代に骨接ぎの学校を卒業し、骨接ぎや整体の仕事を30歳までしていました。ソ連が崩壊して個人事業が始められるようになり、父が現在の薬草店を始めたため、骨接ぎをやめ父の薬草事業を手伝うようになりました。父のお店を手伝いながら、父からも教えを受け、勉強していきました。
–初代であるお父さんがお店を始めた経緯を教えて頂けますか?
父自体はソ連時代にエンジニアとして仕事していましたが、父の兄弟親戚は医療関係者が多く小さい頃から薬草に興味をもっていました。私の祖母にあたる父のお母さんが薬草に詳しく、父も関心をもって祖母から吸収していたそうです。父はエンジニアの仕事をしつつも、ロシアじゅうの森林を巡り、薬草をとっては身体の調子の悪い人に煎じてタダで渡していました。薬草で人々の身体を良くすることにとても喜びを感じており、年金暮らしになったら、薬草で人々を幸福にするのを夢見ていました。50過ぎで父は早めの年金生活者となり、ソ連崩壊で個人事業が許可されるようになったので今の噴水通りあたりで小さい露店を開くようになりました。
薬草で人々へ貢献することを夢にお店を開いた父ニコライさん
–お店はすぐに繁盛されたのですか?
父はお客さんの顔を見るだけですぐに具合の悪い場所を当て、的確に煎じる治療者として有名でした。すでにソ連時代から無料で配ったりもしていたので、口コミで父の存在自体は知れ渡っており多くの人が訪れてくれました。私が言うのもなんですが、父の能力と薬草で人助けするという情熱は神が与えてくれたものとしか言いようがなく、そこに人が自然と集まってくるような感じでした。
–お父さんはどういう生活を送っていられたのですか?
金土日は露店を出してお客さんを相手にして、平日は沿海州のタイガやロシアじゅうの森を歩き草を摘んでいました。とりあえず歩くのがすごくて、多い時は1日に70kmも歩いていたりしました。父は薬草だけでなく朝鮮人参取りにも精を出していました。父は2014年に80歳で市場でこけてそのまま亡くなってしまいましたが、それまではずっと薬草に全てをささげていました。
父ニコライさんは最晩年まで店頭に立ち庶民の健康を助け今もお客さんに語り継がれる
–アレクサンドルさんは30歳からお父さんを手伝うようになったのですね?
はい、父の仕事全般を手伝いました。ただ煎じることだけは15年間タッチしていませんでした。煎じて人に販売するということは、場合によってはお客さんが死亡することもあるわけです。私は基本的な医療知識をもっていたので、その怖さはよく知っています。
15年間は煎じることはなく、40過ぎから覚悟と責任を自分に課して煎じるようになりました。
-薬草を販売するお店は結構ありますが、そんなに重い職業なんですね?
ロシアじゅうに私達のようなお店は結構ありますが、うちのように行っているおところは皆無かと思います。うちは人々を助けたいという一身で、医者のような意識でおこなっていますから、異なるとは思います。法律の関係上「治す」という言葉は使うことができませんが、意識の上では治療するという思いです。
–アレクサンドルさんはどのように薬草の勉強されているのですか?
薬草そのものや調合については、父から教わったものや自分が本などで勉強したものがベースです。ただし、それはあくまで知識のベースであって、お客さんの反応、つまり実際に効果があったかなどを書き留め、知識と接客で得た経験を統合しています。そのため私達の仕事は経験によるところが大きいのです。インターネットの知識だけでは対処できません。
-アレクサンドルさんお父さんのような生活を送られているのですか?
私など父には到底到底及ばず、大人と赤ちゃんくらいの違いがあると思っています。ただ父の人々を助けたいという気持ちは次ぎたいと、自然と思うようになり私も休みなく今の事業をしています。事業そのものが私の生活であり人生なので特に休みは必要ないです。
–お店には何種類くらいの薬草があるのですか?
50種類くらいかと思います。
–薬草は森で取ってくるのですか?
50種類のうち10種類くらいは自分の土地で育てています。残りはタイガに入って取ったり、ロシアの西方やカフカスの森から送ってもらったりしています。カフカス地方には仲間がおり、沿海州で手に入らないものとカフカスで手に入らないものをお互いが交換しているんです。因みに今は森で自由に薬草をとることはできないので、きちんと許可をとり摘むようにしています。
–大変なお仕事で後継ぎ候補はいらっしゃるのですか?
父もそうでしたが、この仕事への向き不向きは天賦のものです。私には2人の子供がいますがそれぞれ独自の道を行っていますし、それでいいと思います。休みなく薬草にかかわり、森に入り、店頭に立つというような生活は、神がそういう性質を人に与えてくれない限りはなかなか続きません。また薬草の知識と経験は、私が教え込むというものではなく、本人が主体的に勉強していかなければいけません。誰かが引き継げばいいと思いますし、今うちで働いているイゴリなんかも熱心で将来継げるかもしれませんが、こればかりは神にしかわからないです。
–最後にこのお仕事の喜びについて教えてください。
父は国内のみならず外国に住むロシア人をも薬草で助け、今でもロシア全土、海外からも連絡をいただきます。最近はドイツとブラジルから連絡をいただきました。ウラジオストクに来たついでに寄ってくれる人も多いです。その他、うちのことを聞きつけてわざわざ韓国人や中国人が来てくれたりもします。普段は結構淡々と仕事しているので、こういうのは嬉しいですし、そういうのを励みに今後も薬草で特に身体のすぐれない人を助けていきたいと思います。
お父さんとその偉大さ、人々への貢献を楽しい調子で話してくれるアレクサンドルさん。そこのお店が今後も続いていけば、お父さんとアレクサンドルさんの人々への貢献の気持ちや、ロシア薬草の伝統が保存されていくにちがいありません。
お店の紹介:http://urajio.com/item/1285
http://urajio.com/item/1395
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