ウラジオストク駅から一番近い場所にある果物店は場所柄、旅行者にもなじみのあるお店。このお店を営むのはアゼルバイジャン人ヤーシャさん(Яша)。ウラジオストクで長年果物商売を営むヤーシャさんに、1万キロ以上離れた極東ウラジオストクへ来た理由などについて聞いてみました。
–ヤーシャさんが1万kmも離れたウラジオストクへ来られた経緯を教えてください。
私はアゼルバイジャンの首都バクーから1995年にウラジオストクへ来て今年で25年目になります。当時のウラジオストクは物が不足していて、野菜も不足していましたが、果物は皆無な状況でした。そのため、アゼルバイジャンの果物をウラジオストクで販売しにきたというのがウラジオストクへ来た理由です。アゼルバイジャンは気候も暖かく、野菜から果物から、花から何か何まで豊富にあります。
–では果物を主に販売されていたのですね?
桃、あんず、チェリー、リンゴなど、アゼルバイジャンでとれるありとあらゆる果物をアゼルバイジャンから運んでは売り運んでは売りしました。果物以外にも野菜、そして花も売りました。
–果物はどのように当時運んでいたのですか?
当時はロシア国内の道路も未整備だったこともあり、飛行機や鉄道で運搬していました。今は道路が整備されたこともあるので10日間かけてアゼルバイジャンからトラックで運ぶようになっています。
–果物の売れ行きは今と昔で変化ありますか?
25年前来た時はウラジオストクで売っている果物は、リンゴなどの一部を除いては、旧ソ連諸国のウズベキスタンや母国アゼルバイジャン産だけでした。競争はだいぶ緩かったので、本当によく売れました。最盛期で市内にお店を6店舗構えていましたよ。それが段々時間が経つにつれ隣国の中国から大量の果物が入ってくるようになりました。アゼルバイジャン産のものが競争力を失っていくとともに私の商売も少しずつ小さくなっていきました。今はこのウラジオストク駅そばのお店と、フタラヤレーチカのお店の2店舗です。
アゼルバイジャン国旗が貼られたトマト
–25年前のウラジオストクで印象に残っていることありますか?
25年前来た時は、ウラジオストクにイラン人が大量に来ていました。イラン人達はウラジオストクの港から日本へ向かっていきました。アゼルバイジャン語とイラン語は近いので、イラン人達が日本へ渡航するのをよく手伝ったものです。休日なんかには、皆で一緒にウラジオストク郊外でバーベキューしたりしましたよ。楽しい思い出です。
イラン人達と一緒のヤーシャさん(手前チェックシャツ)
–ヤーシャさんはウラジオストクで家族とお住まいですか?
アゼルバイジャンに子供2人と妻が住んでいます。私は家族から離れて1人ですが、もうウラジオストクの生活にも慣れているし、むしろアゼルバイジャンにいってもやることないからウラジオストクで暮らす方がいいです。それにウラジオストクには日本車貿易をしている兄もいますしね。そうそう、この新しいトヨタのワゴン車は兄が見つけてくれたものですよ。
–最後にアゼルバイジャンについて少し教えてください。
アゼルバイジャンは気候が温かく5月で既に30-40度になります。果物、野菜、なんでもとれるとても良いところです。以前は貧しかったですが、今は首都バグーを中心にとても発展しました。裕福なアゼルバイジャン人も本当に増えましたよ。アゼルバイジャン料理も美味しくて、シャシリク(串焼き肉)やプロフ(ピラフ)が絶品です。プロフはウズベキスタンを始めとした多くのエリアで同名のものがあるのですが、素材や作り方もアゼルバイジャンのものが一番おいしいと思います。ぜひ一度アゼルバイジャンに来て試してください。
ヤーシャさんがおススメのアゼルバイジャン風プロフ
ソ連崩壊後の動乱のウラジオストクから現代までの果物商売や当時の様子について楽しく語ってくれるヤーシャさん。中国産に押され気味ではありますが古参商売人としてなんとか今後もウラジオストクで長く御商売続けていただきたいものです。
ウラジオ発:アゼルバイジャン人の果物店店主 ヤーシャさん
アゼルバイジャン人の果物店店主 ヤーシャさん
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