日本人街旧跡
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ウラジオ発:旧日本人街「ニコライ皇太子凱旋門」
1891年、ニコライ皇太子(後のニコライ2世)が日本からの帰路にウラジオストクに立ち寄った。それを記念し建設された。 日本語名:ニコライ皇太子凱旋門
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ウラジオ発:旧日本人街「ウラジオストク鉄道駅」
最初の建物は1891年に建てられ、1912年に現在の建物となった。1912年に敦賀-ウラジオストク航路が開かれ、ウラジオストク駅経由で日本からヨーロッパまで2週間で行くことが可能となった。 日本語名:ウラジオストク鉄道駅
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ウラジオ発:旧日本人街「旧「浦潮日報」編集部」
「浦潮日報」第一号は1917年に発行された。日本の有力企業家の資金と日本政府の援助により日刊として発行されていた。当時の現地日本人の重要な情報資源であった。 日本語名:旧「浦潮日報」編集部
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ウラジオ発:旧日本人街「旧商船組」
1919年に定期船の代表事務所として創立された。運送、倉庫業に営んだ。ソビエト誕生後、ソビエト連邦に存在する唯一の日本企業となるが、1937年には閉鎖された。 日本語名:旧商船組
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ウラジオ発:旧日本人街「旧横浜正金銀行」
1918年、横浜正金銀行はウラジオストク支店を開設した。日本の満州経営に一役担った。1924年ウラジオストク支店は閉鎖され、ハルビン支店へ移管された。 日本語名:旧横浜正金銀行
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ウラジオ発:旧日本人街「旧妹尾商店、堀江商店、太田商店」
堀江直造は1892年、22歳のとき西澤商店の社員としてウラジオストクに赴任した。その後1899年に自分で会社をもち果物、素麺などの売買をおこなった。 日本語名:旧妹尾商店、堀江商店、太田商店
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ウラジオ発:旧日本人街「旧朝鮮銀行」
松田銀行振を段階的に吸収し、1919年に朝鮮銀行浦潮斯徳支店とした。1922年まで日本の浦潮派遣軍と積極的な取引をおこなった。 日本語名:旧朝鮮銀行
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ウラジオ発:旧日本人街「旧杉浦商店」
1880年、アメリカと取引していた横浜の貿易商会がウラジオストクに支店を開設。横浜の本社が倒産したが、ウラジオストク支店の杉浦久太が支店の財産を相続し、杉浦商店とした。 日本語名:旧杉浦商店
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ウラジオ発:旧日本人街「旧松田銀行部」
日露戦争後の1907年に長崎市の十八銀行の支店として開かれた。ルーブルと円の換金、満州大豆の輸出で大きな利益を上げた。 日本語名:旧松田銀行部
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ウラジオ発:旧日本人街「旧日本人小学校」
1894年に浦潮本願寺の1室で開校。のちに当地の建物を購入し小学校とした。年に200人程度の生徒がいたが、1931年に閉鎖となった。 日本語名:旧日本人小学校