日本人街旧跡
-
ウラジオ発:旧日本人街「与謝野晶子記念碑」
詩人与謝野晶子は1912年にパリにいた夫鉄幹に会いにいくためにウラジオストクを経由しシベリア鉄道に乗り込んだ。 日本語名:与謝野晶子記念碑
-
ウラジオ発:旧日本人街「作曲家・入野義朗の生家」
作曲家入野義朗は1921年にウラジオストクで生まれた。入野の父は鈴木商店の支店長としてこの建物に住んでいた。1927年に鈴木商店倒産によ一家は日本へ帰国した。 日本語名:作曲家・入野義朗の生家
-
ウラジオ発:旧日本人街「女優松井須磨子が出演したプーシキン劇場」
有名な演出家島村抱月と松井須磨子は1915年にウラジオストクを訪れ、ロシアの劇団との合同講演を行い、大好評を博した。 日本語名:女優松井須磨子が出演したプーシキン劇場
-
ウラジオ発:旧日本人街「二葉亭四迷ゆかり地」
二葉亭四迷は東京外国語学校(現東京外国語大学)のロシア語課で学びロシア文学に傾倒した。1902年には3週間ウラジオストクに滞在し、情報収集したり、読書会を開いたり積極的に活動した。 日本語名:二葉亭四迷ゆかりの地 &nb […]
-
ウラジオ発:旧日本人街「旧東洋学院」
1899年に極東ロシアで最初の高等教育機関として建てられた。中国語、英語の他、日本語、モンゴル語、満州語なども教授された。現在この建物は極東連邦大学となっている。 日本語名:旧東洋学院
-
ウラジオ発:旧日本人街「ニコライ皇太子凱旋門」
1891年、ニコライ皇太子(後のニコライ2世)が日本からの帰路にウラジオストクに立ち寄った。それを記念し建設された。 日本語名:ニコライ皇太子凱旋門
-
ウラジオ発:旧日本人街「ウラジオストク鉄道駅」
最初の建物は1891年に建てられ、1912年に現在の建物となった。1912年に敦賀-ウラジオストク航路が開かれ、ウラジオストク駅経由で日本からヨーロッパまで2週間で行くことが可能となった。 日本語名:ウラジオストク鉄道駅
-
ウラジオ発:旧日本人街「旧「浦潮日報」編集部」
「浦潮日報」第一号は1917年に発行された。日本の有力企業家の資金と日本政府の援助により日刊として発行されていた。当時の現地日本人の重要な情報資源であった。 日本語名:旧「浦潮日報」編集部
-
ウラジオ発:旧日本人街「旧商船組」
1919年に定期船の代表事務所として創立された。運送、倉庫業に営んだ。ソビエト誕生後、ソビエト連邦に存在する唯一の日本企業となるが、1937年には閉鎖された。 日本語名:旧商船組
-
ウラジオ発:旧日本人街「旧横浜正金銀行」
1918年、横浜正金銀行はウラジオストク支店を開設した。日本の満州経営に一役担った。1924年ウラジオストク支店は閉鎖され、ハルビン支店へ移管された。 日本語名:旧横浜正金銀行